Scribble at 2020-11-18 12:47:39 Last modified: unmodified

2020年08月28日 に初出の投稿

僕が「微分の言い抜け」といった議論に強い違和感を感じた理由は、簡単に言うと次のようになる。

僕は、計算しても限りのない数という何かが(何らかの意味において)《ある》ということが数学という学問の魅力の一つだと思っている。なのに、そういう無限とか計算手順の限りの無さということをもってして、答えが出ないならまやかしだみたいな事を言って微分とか収束とかを論じる哲学者がいるということに、僕は驚かざるをえないのだ。かといって、そういう人々が何らかの意味で言う「有限主義」なのかというと、そういうわけでもない。結局、無限とか有限ということ自体を自分の知性の範囲内で有限の推論なりステップで理解できていれば、その範囲で何事かを語って済ませられるという思い込みは、cognitive closure を支持している僕からすれば、哲学者として致命的な自己欺瞞に陥っていると思う。数学者であっても、無限とは何であるかについて本当のところはよく分かっていない(しかし分かっている範囲では厳密な議論ができる)ということが知的なエキサイティングと言うべき事実であり、それは数学なかんずく人類の知性の有限性を示してはいるが、《そこで限界だ》などと言える根拠を証拠立てているわけでもなんでもないのだ。だからこそ、僕は科学の《進展》を信じるし、そこから学んで哲学としての自立的な思索も展開するなり発展するだろうと思う。

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