Scribble at 2020-11-21 16:33:59 Last modified: 2020-11-23 19:57:02

科学哲学というと、とにかく科学の揚げ足を取ろうとするだけだという印象がぼくにはある。いやそうじゃないよ、あーでこーで、という能書きは知らないわけじゃない。でも実際に出てくるのは反科学的な妄言ばかりで、そのために怪しい相対主義と結託して科学の成果に下衆な勘ぐりをしている人たちばかりが目立つ。そうでない、真面目にやっている人もいるとは思うし、実際はそういう人のほうが多いんだろうけどね。で、そうでない浮ついた人々は、自己組織化とか創発とかアフォーダンスとか民俗科学とかホーリスティックとか、一昔前のユリイカやエピステーメーで特集したがったような話にすぐとびつきたがるのだけれど、そういう安易さがなくて、読んでいてとっても嬉しい。

マラテール『生命起源論の科学哲学』:すばらしい。創発批判本!

山形浩生という人物が大の科学哲学嫌いで、しかしデネットを初めとする Edge.org に集う自然科学者と仲良しこよしの哲学者には好意的という、かなり一貫性に欠ける態度に軽い違和感をもっていたのだが、上記の文章で分かるように、おおよそ彼の言う「科学哲学」というのは、たとえば青土社とかから出てるような本で展開されている理屈のことだということが分かる。科学哲学のプロパーどころか学部レベルでも気づく話だが、日本の出版・マスコミ業界には「科学論」という不思議なフレーズがあって、山形さんを初めとして黒木玄さんの掲示板に集っていた人々からは評判の悪い人文・社会系の研究者が携わったり議論しているものを、科学哲学とか STS とか科学思想史などとは別の独特な言い回しで語る風潮がある。そこには、大森荘蔵氏や村上陽一郎氏などはいるが、竹尾治一郎先生や三中信弘さんは含まれないような一定の集団がいて、山形さんや黒木さんらが信奉する「科学」とやらを相対化したり過小評価する論説を続々と出版したり、あるいは「科学者」とはミニ・ブラックホールを作ったり原発を乱造して人類を破滅させるキチガイどもだと警鐘を鳴らしているというわけである。

そして、どうやらそのどさくさで「科学哲学」という分野があるらしいと見做されているようだ。「科学哲学」によると、たとえばベイズ統計学とは、主観確率を使って政治的・ビジネス的な予断を正当化するようなクズ議論であるなどと、科学哲学者が教科書まで書いているのだと断罪されるらしい。また、「科学哲学」とはフロイトや岸田秀が唱えた精神分析の議論を使って脳神経科学や認知心理学を脱構築するものなのだと言わんばかりだ。かような、学部の学生でも分かるような程度の低い誤解を何年も不勉強なまま続けて、特定の人文系の学科を愚弄し続けているというのであれば、翻訳はうまいし面白い本を選択する人物ではあるけれど、やはり幼稚な scientism に陥った一人ということなのだろう。その昔、東大の和田純夫さんとメールでやりとりした頃は、あの掲示板に集っている人々の中にも一定の多様性はあったと思うのだが、結局はその当時に頑迷な集団として彼ら自身があげつらって批判していた、ウーロン茶とかいう元新聞記者の運営する掲示板にいた蒙昧な人々と同じような結果になったということだろうか。

あと、大学の教員とか物書きとして他人に自説や著作物を有料で販売しているような人たちに何回も言いたくないんだけどさ、哲学でいう《科学》というのは、さかなクンがやってる海洋生物のお話とか、どこそこの数学者が東北大で講じてる理論とか、それどころかノベール賞の対象となった厳密で大規模な実験とか、そういうもののことでは《ない》わけであって、シュメール人が空を見上げて議論していた天体の運行の話だって含まれるし、50年前の「科学哲学」と呼ばれる議論だって、その一部として含まれるような人の(集団の)営為や成果や原理的な可能性も含めた何かのことなのだ。哲学者にとって、《自然》科学というのは人類の営為としては知識の体系におけるスケールから言っても歴史から言っても、ほんの一部の話でしかないのであって、いい加減に自然科学の一部のプロパーや、実質的に科学主義を標榜している物書きたちは、自分たちが人や社会や宇宙のすべてについて手持ちの理論から(たかだか掲示板や Twitter やブログや TED のプレゼンていどで)語りうるという傲慢さをどうにかしたらどうなのかと思うね。そして、科学について科学者はその限界を知っているとか、一見すると格好いいことを言っていても、自分たちのやってる「科学」(だけ)が《科学》だと思い込んでいるなら、彼ら自身が弁えていると称する限界についての判断も疑わしいと言わざるをえない。自足的に正しさを自分で立証したり正当化できる学問や知識の体系がないことくらい、別に濫用されてる不完全性定理など持ち出さなくても、学者や物書きとしての誠実さに基づいて心得ている人々ではなかったのだろうか。

それから、「そうでない、真面目にやっている人」がいるなどと思弁だけで言えそうなことを書けば、断定を保留して善人ぶった態度を維持できるというのは、まさに彼らが非難している相対主義というものだろう。ここには悪い奴がいるけど、他には良い奴もいるのだろうねなんて、彼がアマゾンのカスタマー・レビューとかブログでこき下ろしている社会学の紀行エッセイみたいなものと同質ではなかろうか。もし、まともな科学哲学の業績もあるとか、まともな科学哲学者も多いだろうと思うなら、悪い方だけを積極的に紹介して、これぞ科学哲学なりと繰り返すのは、それこそ黒木掲示板で僕が「UNIX系の人々」と書いてたしなめられたような、偏見をばらまく行為と同じだと思うが。

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