Scribble at 2020-08-28 11:33:48 Last modified: 2020-08-31 15:34:35

私の経験では「哲学で数学や科学に立ち向かう」というスタイルの人たちはすべて単なるトンデモさん扱いで問題ない人たちばかりであった。「ウィトゲンシュタイン」とか言い出す人は特に危ない。時間三部作を書いた大森荘蔵氏もその手の単なるトンデモさんに過ぎなかった。

https://twitter.com/genkuroki/status/817961952790122496

最近のツイートでは、大森氏や村上氏は明らかに「トンデモ」の扱いになっているようだ。

実は、もう20年くらい前になるが、黒木さんに私的なメールで約束していたことがあり、それは科学哲学でこういう変なこと(「微分の言い抜け」)を言う人が出てくるのは何故なのかを考えておくというものだった。学部レベルの数学を勉強している人であれば、微分というか連続関数の議論で導入されるε-δ論法を理解できていないだけの話ではないかと思うのだが、では両者は数理哲学としてε-δ論法に挑んでいるのだろうか。文字通りに解すると、村上氏はε-δ論法を「トリック」とまで称しているのだから、そういう可能性がある。でも、ぜんぜん厳密な議論とは思えないし、そういう議論を正面から取り上げた著作があるかどうかも知らない。

これは僕が当サイトで thanatophobia という概念を使っているページで書いた議論にも通じるのだが、村上氏が「限りなく」という操作なり極限という概念について念頭に置いているのは、恐らくアキレスと亀の議論に見られるような対比ではなかろうかと思う。計算上は「限りなく」時間を分割するとアキレスは亀に追いつけないわけだが、実際には数秒後にアキレスは亀を颯爽と追い抜く。そういう場合の現実とは異なる議論に見て取れる難しさを、解析学の概念にも指摘しようというわけである。

だが、既に thanatophobia のページで述べたとおり、現実には極限に達しえないから極限の概念はトリックだなどと論じるのは馬鹿げている。なぜなら、それは「極限に達するまでは極限には達していない」という当たり前のことについて、残りの数を無限に分割しながら言い続けているだけのことだからである。つまり、ε-δ論法においては不要な筈のレトリック(ε-δ論法において、不等式が成立する値を「無限に」小さくしていく操作など必要ではないし、できない)を混在させて「トリック」に仕立て上げているのは、村上氏の方なのである。

もういちど正確に言い直すと、ε-δ論法で使う操作を繰り返しても現実には極限に達しえないから極限の概念はトリックだと言う場合に、極限に向かって計算するという操作が終わらないとか、不毛であるとか、あるいはもっとあからさまに無限に続くという事実から、「極限に達しえない」と勝手に議論を飛躍させているのは、極限の議論を批判している方の人間なのである。

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