Profile and Private Records

Personal details

Name
Takayuki KAWAMOTO
Address
Osaka city, Osaka prefecture, JAPAN
Birth year
1968
Education
Tennoji High School attached to Osaka University of Education (1987);
Osaka University of Economics and Law (Bachelor of Law, Criminal Law, 1993);
Graduate School at Kansai University (Master of Literature, Philosophy and Logic, 1997);
Graduate School at Kobe University (retired, Philosophy of Science, 2001.)
Work experience
Teaching assistant in Philosophy at Kobe University (1998-2000);
Chief designer at small IT company in Osaka (2001-2002);
Chief designer, director and system architect at contents provider in Osaka (2002-2006);
Chief software architect and board member at IT venture in Osaka (2006-2008);
and now chief privacy officer and manager of information security office at the same company (2008-.)

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Notes

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Street fight

私見では、プロパーにできるだけ学術活動へ専念してもらうには、彼らの周辺で学術活動へ携わることに価値があると考えている筈の元プロパーやアマチュアが、それなりの自制なり水準を維持しつつ、当ページで取り上げるようなメタレベルの議論に加わってもよいと思っています。いまや、学問に関わる圧倒的多数の人々が能力としても経済的な事情においても凡人でしかありえない以上(というか、昔からそうだったと思いますが。哲学は、なにもカントやプラトンだけがやっていたわけではありません。分からない方は、「生存バイアス」のようなキーワードで調べてみて下さい)、こうした分業は必要だと思います。

哲学や科学哲学に限らず、一定のルールのもとでコミュニティを擁している活動に関して、素人、あるいは「社会」が突き付けるメタレベルの議論に取り組むことは(ここでは「哲学に関する素人の戯言を叩き潰すことは」と言い替えたいところですが)、現代においては同じく素人やアマチュアにも開かれているタスクとなりえます。無論、それが或る学術分野の(アマチュアによるものであるがゆえに?)貧弱な自己正当化であると見做されやすいのは確かなので、アマチュアはアマチュアなりにプロパーとは別の基準で議論すれば、利害関係に固執していないという点で一定の説得力があるはずです。例えば、アマチュアは研究活動について、大学や各種団体や企業から給与や助成金や補助費を受けておらず、公的な科研費等も受けていないので、家計という意味では当該の学問を講じる学科が大学の講座として消失しても全く問題ないという前提で議論できます。とりわけ、哲学というものは大学なり出版社がこの宇宙から消え去っても問題なく携われる筈の営為ですし、もともと学術や知的研鑽とはそういうものです。

このような次第で、このページでは他のページよりも(僕の本来の気質に近いとも言えますが)反感を買いやすい表現や議論が出てきます。わざわざ煽っているつもりはありませんが、僕の見た限りで愚かと思える表現や議論には、それが大学教員のものであれ、通俗的には弁解の余地があると思われている素人の発言であれ、容赦ない態度で断定している場合もありますので、ご注意ください。

科学についての哲学的研究や科学哲学は、科学についての「床屋談義」なのか?

例えば以下のような疑問も、タイトルと同じ趣旨なのでしょう。

現代において科学哲学ってどんな人がしてるんですか?
「科学」を院以上でやった人はどのくらいいるのかな?

Akira Chikamori, Aug 19, 2011
https://plus.google.com/+AkiraChikamori/posts/g2VJXs5wigR*

*もともと Google Plus での発言でしたが、このサービスは2019年に終了しました。なお、この人物つまり個人には何の興味もないので、表示名(“Akira Chikamori” が実名のアルファベット綴りなのかどうか知ったことではありませんし、日本人なのかどうかも知りませんから、元の漢字というものが存在しない可能性もあります)は掲載していますが、実際に誰なのかは知りません。大学の教員なのか学生なのか素人なのか、そんなことはどうでもいいです。しかし、誰が発言したかという事実も脈絡によっては有効な場合もあるため、敢えて表示名は掲載し続けます。

リテラルに、つまり文字面だけで受け取れば、これは単に研究者の履歴を質問しているだけですが、まともな日本語の運用者であれば(そしてコメントを読めば)、これが反語表現(「理数系の博士号をもっていなければ、誰であろうと科学について語る資格はない」)という一個の主張であることは明らかです。哲学、科学哲学、科学史、科学論 (STS)、科学教育論、科学技術政策論、知識社会学といった、科学に関する研究分野に従事している方々の多くは、既に上記のような疑問を科学者から問われた経験があったり、このような疑問を想定したらどう応じるのが正しいかを学んだり議論していると思いますが、ここではそうした応じ方の事例を幾つか検討します。なお、人によっては「老獪」とも言うべき態度を採ることが望ましいと考えるかもしれませんが、僕は明快に応じる方が望ましいと考えています。(もちろん、このような些事に関わらなくてはならないのは不幸なことでもありますから、のらりくらりとやり過ごす方々の信条は理解できます。)

さて、一つの応じ方は、哲学者や科学哲学者はアウトサイダーという意味での、まさに「科学の素人」であることに意味があるというものです。ただし、これを STS 系の人々がよく言うような、科学研究の社会的背景といった文脈で論じるつもりはありません。そのような、いわば自明の論点に説得力はありません(それだからこそ、STS 系の方々は更に進んで「社会的責任」を科学者に措定したり押し当てようとするわけです)。哲学者や科学哲学者が科学のアウトサイダーであってよく、寧ろそうであるべきだと考えるのは、もちろん特定の分野や学説あるいは学派やコミュニティといった、偶然的な事情なり歴史的な制約に拘らなくてもよいからです。つまり、科学の社会的な背景や科学者の社会的な立場なるものを、逆に無視できると考えるからこそ、STS や科学史とは違うアプローチをとります。「~理論の哲学」といった著作や、特定の学説に関するケーススタディが多いので誤解されやすいのですが、哲学あるいは科学哲学は、人類の歴史において特殊相対論がまだ主張されていなかったとしても成立する筈の営為でなくてはなりませんし、量子論が成立しなければ語れなかったような議論や論点なるものがあったとしても、それは実のところ哲学的にはどうでもよいものです。したがって、量子論を哲学的に研究するとか、ニュートンが「数」をどう考えていたかを研究するとか、そういう個々のケーススタディを科学哲学という学術分野の典型として見做すべきではありません。そうした個々の研究テーマについては、専門に学んだ人もいれば、そうでない人もいます。しかし、科学哲学の研究者に、もともと理数系の学位を取得してから移ってきたという人がいてもいなくても、そうした経緯が科学について哲学する(あるいは科学の歴史や社会的な役割などを研究する)ための必須の資格であると考える人は、恐らく「科学」を誤解しているか、「哲学」を誤解しているか、あるいはその両方だと思います。

二つめの応じ方は、「科学について語る資格」が何であるかを考えてゆくと、実は殆どの科学者にも科学について(とりわけ哲学的にではなくても)語る資格などなくなるというものです。たいていの科学者は、自分が学んだり研究している特定の分野については、学位を取得しているなら一定の知識や経験をもっているでしょう。しかし、それはその範囲で評価されているにすぎません。理論物理で博士号を受けたからといって、分子生物学について専門の研究者が傾聴すべき何か有益なことを語れる人など、さほどいないでしょう。また、トライボロジーの研究者がその分野を修めるだけで、数理論理学や電子工学についても何か本質的なことを理解していると考える人はいないはずです。では、少なくとも現行の大学制度で維持されている研究分野の全てにおいて学位を授与された人などいるでしょうか。もちろんいません。しかし、一部の分野しか知らないからといって「科学」について語る資格がないとすれば、この地球上に「科学」を語りうる人物など一人も存在しないので、「科学」について誰も何も語るべきではないか、あるいは原理的に語り得ないと言わなくてはならないでしょう。つまり、その対象がなんであれ、それについて知ろうとしたり、学んだり、考えたり、議論したり、意見を表明することに資格があるとかないとか、あるいは特定の誰かに優先権や特権があるといった話は、厳密に議論すると全て自己撞着的な結論に至るわけです。

結局、この手の煽りや冷やかしのようなコメントは、逆に「文系」の研究領域である美とか感性を神経美学や比較認知科学というアプローチで研究している人々に向かって、「二科展に入選したことがあるか」とか、「書道や茶道の資格をもっているのか」と聞くようなものである。もちろん、われわれ哲学者は「科学哲学」や「哲学」と呼ばれている特定の研究分野や大学の学科がなくなろうと研究や思索に殆ど影響はないし、こういう小僧が増えて日本国内どころかアメリカでも科学哲学の研究書が出版されなくなっても、さほど研究には困らない。この手の小僧がどこの大学の博士号をもっているのかは知らないが、研究の邪魔だというならこの宇宙から完全に科学哲学の本や雑誌が消え去っても、われわれ哲学者は本質的に何も困らないので、そうしたファシストかネトウヨ君たちのやりたいようにすればよい。

しかし、我々は「理系 vs. 文系」とか、その手の俗事にもコミットせざるをえない。そして、そういう俗事の場面においては《いいひと》である必要があるため、この手の小僧も「裸の王様を指を向けるトリック・スター」になりうる存在として、科学哲学を正当化する素敵な物語に回収するための仕組みだと言っては、彼らのような存在も必要であって、かような批判も受け入れる《多様性》なるものも維持しなくてはいけないなどど、ものわかりのいい人として振舞わなくてはならないのかもしれない。

三つめは、上記のような疑問が意図している「科学」が何であるかを、実は当人もよく分かっていない場合が多く、そして科学哲学や哲学で意図されている「科学」とはぜんぜん違う(そして、そのどちらが「意味として正しい」かも、それを決める必要があるかどうかも含めて、一つの議論になりうる)というものです。例えば、僕が「科学」と述べたときに意図しているのは、フランス語で言う épistémè あるいはドイツ語で言う die Wissenschaft のように、知識論あるいは認識論という枠組みで扱いうる一つの(ファイヤアーベントほど相対化するつもりはないにせよ、代表でも典型でもないと思うが)対象です。そしてもちろん、「科学」が何らかの本質をもつ一つの対象と言いうるのかどうかも、もちろん哲学の議論になります。このような意味の「科学」と、上記のような冷やかしレベルの発言に出てくる「科学」が大きくかけ離れており、そしてどちらの意味合いが正しいとか正当だと簡単に言いうるものでもないのは明らかだと思います。哲学に関する素人が、哲学とは何であるかとさほど理解していないのは当然でしょう。そして哲学の場合、哲学の専門的な研究者であっても、哲学とは何であるかを厳密かつ妥当な水準で理解していると自負できるような人はいないでしょう。しかし、残念なことに大学教育や企業のシンクタンクなどで科学に関わったか携わっている人々の多くは、理学部に入ったというただの教養課程の学生ですら、他人に「おまえは科学が分かっていない」などとオタク的ヘゲモニーを仮定して傲岸不遜な態度を取る傾向にあり、それゆえ自分たちの楽園に踏み込んで景色を勝手に批評するような(と思い込んでいる)「哲学者」や「知識社会学者」を忌避する人がたくさんいるわけです。日本で盛んに語られている「理系・文系」といった "bullshit" を、多くの(しかしその大半は、理学博士の学位も持っていない取り巻きにすぎない)人々が一種の人種差別に近いメンタリティとして抱えているような不合理主義がまかりとおる奇妙な国においては、昔から蛸壺だの何のと言われてきたような、つまらなく、しかも低レベルの既得権益が色々な分野で維持されています。そういう人々は、他の分野が自分たちの権益を侵害しているわけでもないのであれば、軽薄な哲学批評を語る暇があるなら自分たちの実績を上げることに専心すべきです。

四つめの応じ方として、そもそも科学者が哲学的に(これが何を意味するかも議論してよい)考えてもいいし、哲学的な議論をしてもいいし、更には哲学書を出版してもかまわない。そのようなことに資格だの学位だの左脳人間以外はお断りなどと了見の狭いことを言う方がどうかしている。それこそ、まさに文字通りファシストである、と言えるでしょう。まともな(この基準も、もちろん議論できる)科学哲学においては、プラトンとアインシュタインと無名の技術者は、その知見や議論が一定の水準を満たしている限り、学術研究のリソースとして同列です(このような議論を否定する人々は、いったい「科学」の多くのコミュニティでブラインド・レフェリー制度が運用されている理由なり妥当性について、少しは考えてみたことがあるのでしょうか)。著名な人々の議論を優先する傾向にあるのは、単に多くの人が典拠表記を利用して同じリソースへアクセスして吟味しやすいという実務上の理由が大きく、同じことを主張している場合に、或る無名の研究者が書いた論文へアクセスする方がアインシュタインの未公開のメモにアクセスするよりも容易であるなら、後者を前者よりも優先させる実務上の正当性はなく、むやみに未公開の資料へアクセスできるという事情だけで何か秘儀のようなものを扱うがごとき態度をとるのは、およそ哲学に関わる人間として恥ずべきでありましょう。哲学、そして哲学的な思索というものは、「哲学者」と呼ばれる一部の特別な(訓練を受けたか、あるいは素養をもつ)人間だけが為し得る秘事ではありません。それはカルトであって、学術活動ではありません。もちろん、研鑽の多寡や理解力や計算力や厳格な態度、あるいはあからさまに言って知能といった個人的な才能が発揮される点は、他の学術研究にも見られるように色々な点に関わっているでしょう。しかし、それらが一定の尺度を満たす限りで必要条件だと結論づけるための学術的な根拠を、妥当な水準の説得力をもって論証した人物など、実際には存在しないのです。いったい、素粒子物理を正しく理解する(これが何を意味するかも、議論していいはずです)ために必要な知能指数はいくつあればいいのでしょうか。その数値の学術的な根拠を言える心理学者や素粒子物理の研究者が、将来も含めて出現すると期待すべき正当な根拠はあるでしょうか。

結局、この手の冷やかしを書きたがる人々、自称「理系」とか自称「科学者」の動機とは何なのだろうか。単純に《私がやっている「科学」を偉そうに批評する素人ども》を、《私がもつ身分や資格や知識》においてマウンティングしたいというだけのことなのか、それとも何か社会科学的に言って学術コミュニティの発展に寄与する有効な目論見があるのか。しょせん、そんなことはツイートていどの分量しかない片言節句から推量することはできないし、子供の冷やかしに大人の哲学者がいちいち過剰反応するのは時間(それはつまり、中島さんみたいな言い方だが、あなたが死ぬまでに残された時間に他ならない)の浪費である。本来、このような馬鹿げたコメントを取り上げて叩き潰す作業というものは、少なくとも制度的な教育課程においては高校時代や学部生時代に終えておくべきだろうと思うし、「正規の哲学教育」とやらを経ていない我々のような人々にとっては相手にするほどの価値など最初から無いし無視すればいいだけのことなのだが、昨今では語られたり大学で議論される機会がないと思われる。実際、是非はともかくとして、寮生活がなくなった現代では、理数系の学科を専攻する学生が哲学科の学生と接する機会は少なくなっており、学内あるいはオンラインで積極的に問いかける相手を探して互いに議論するべき妥当な目的を共有しない限り、お互いに何を言い、考えているのか理解するのは難しくなっている。Twitter やブログのような、しょせんは議論の道具などではありえない、単なる広告プラットフォームのお飾り機能(お飾りの方が大規模で派手なのは世の常だ)に頼ったデータのやりとりだけでは、凡人どうしがそうした上滑りのツールでコミュニケーションをとった結論などというものは、あと数年もすれば携帯のアプリケーションが1秒で弾き出す解析結果に凌駕されることだろう。

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Fragments

僕が科学哲学をやっているのは、単に他ならぬ凡人である自分自身が生涯を費やして僅かながらの貢献を果たせるとすれば、自分が関心をもっている自然法則や必然性や因果関係という概念についてストレートに扱っている分野に集中して取り組む必要があるからだと思っているに過ぎないのです。もし寿命が 8,000 年ほどあれば、当然ながらハイデガーの思想についても、喜んで 100 年は費やして研究するだろうと思います。しかし、寿命がその 100 分の 1 しかないからといって、ハイデガーの思想を同じく 100 分の 1 である 1 年間だけ学んだとして、いったいどれほどの効果があるのか疑問です。僕は哲学においても「分業」なり「成果の蓄積」というコンセプトをもっていたいと思っており(それはつまり、他人の営為を信頼するということでもあります)、僕が科学哲学や一部の分析哲学にだけ取り組んで見えるとすれば、それは上記のような理由による「リサーチ・プログラム」にコミットしているからだということでしかありません。

要するに、僕はそうしたリサーチ・プログラムが「通常科学」であるということをリテラルに受け取るべきだと言いたいわけです。ルーチンワークにそれ自体の欠点があることは、僕も何度か指摘しましたが、それだけでリサーチ・プログラムとしての「ごく平凡な科学の研究活動」に特定の価値(つまり善し悪し)を与えるのは間違っていると思います。反対に、「科学革命」をむやみに「何かよい方向への飛躍」であるかのように理解することは危険であって、ただの結果論でしかないという場合があります。世の多くの革命がそうであったように、従来の体制を単純に破壊して混乱や「他のパラダイム=権威」にすげ替えるだけでしかないという見方を残しておかなくてはならないでしょう。

かようにして、少なくとも僕が考えている「科学哲学」の「科学」は、現行の成功した主流の理論の群れでもなければ科学者の常識でもありません。したがって、僕らはそうした「科学」について考えるために現行の科学の成果や科学史を学ぶべきなのですが、記述的な科学哲学は科学「哲学」の一つのタスクでしかありません。科学哲学は、いま一世を風靡しているロックスター科学者たちのご気分を害さないようエレガントに彼らのお気に召すまま常識的な範囲で科学を語るといった、上げ膳据え膳の思弁や哲学的権威付けを科学者にご披露差し上げる使命など断じて負ってはいないのです。しかしだからといって、そもそも哲学はそうした科学者への反感から噴き上がった人々が言うような、「市民」や革命的プロレタリアートや災害被害者や貧乏人だけのためにあるわけでもありません。(もちろん、そういうアプローチがあってもよい。)他の学問との学術的な独自性という点での緊張関係を、「どっちが頭がいい」だの「理系・文系」だのといった自意識の鍔迫り合いとを混同するのは、どれほど足し算引き算が得意で東大やスタンフォードの博士号をもっていようと子供でしかありません。

こういう見解をまったく視野に置いたことがない人は、たとえば「フェミニズム志向の科学哲学」などを奇異の目で見たり、先に触れた「科学哲学と冷戦」といった科学社会学的なアプローチに(大した理由もなく)批判的な態度をとりますが、上記のような議論を考慮してもらえればと思います。

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