Scribble at 2026-05-14 12:41:40 Last modified: 2026-05-14 12:55:25

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サイトを統合したので、こちらでもごく当たり前に哲学の話題を持ち出すのだが、これは高校生ですら「情報」の科目で機械学習や AI の基礎を学び始めている現代においては、もはや哲学というよりも常識の話に属するというべきであろう。

それは、チューリング・テストという思考実験の教訓は、表面的な応対の仕方だけで相手が AI なのかヒトなのか区別できないなら、その「相手」に意識があると考えてもよいということなのではない。おそらくチューリングが語ろうとしたのは、まったく逆である。つまり、しょせん外見でしか判断できない意識なんてものがあるとかないとかを議論するのは無益ということなのだ。われわれはその「相手」がヒトであるとしても、意識なんてものを想定せずに対応したり付き合えるし、なんなら愛することだってできるだろう。ロボットや動物どころかアニメのキャラを真面目に愛する人がいるように、相手に意識なんてものがあるかどうかは本質ではないのである。

それから、このような話をするときに、最初から AI や動物と「意識があるヒト」とは違うという前提で話を聞く人がいて、そういう人たちの中には「ヒト以外を相手にするときは、動物や AI に自分の感情や思考の主体という立場を『投射』しているにすぎないのであって、それらがヒトの相手になっているのは『意識』がある自分自身が投射しているからにすぎない」という反論をする人がいる。でも、この反論が弱いのは、僕らが誰か(つまりヒト)を相手にした場合でも、相手にヒトとしての感情や理性や節度などを投射しているという事実を無視しているからだ。相手がキャラであろうと妻であろうと、自分が相手をしているという構図に変わりはない。人間どうしのコミュニケーションだけが、何か(意識を持つ)お互いの特別な関係として、機械やキャラや犬とのコミュニケーションからは区別できるというのは、はっきり言ってコミュニケーションや言語や生物の認知能力というものを何にも理解していないと言わざるをえない。

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