Scribble at 2026-07-06 10:18:47 Last modified: 2026-07-06 13:26:33
数年前に、マルセー・ルドゥレダの『ダイヤモンド広場』を読んだことがある。そして、作品に登場する地名を手掛かりにして Google Maps へ主要な場所をプロットしてみて、登場人物の女性が非常に狭い範囲で人生を送っていた様子が分かったりした。もちろん、その是非を語るつもりはないし、そんな必要もない。別に海外や異世界にまで行き来するような人生の方が「優れている」とか「充実している」というのは偏見でしかない。かといって、この作品の主人公と同じくカントのように殆ど自分の生活する場所から動かないからといって、何か「堅実」で、「慎み深い」わけでもなかろう。要するに、そういう外形的な特徴と結びついた他の事実(その人が観たり読んだことのあるテレビ・ドラマや小説など)の特徴とが自然・必然・当然であるかのように結びついているという錯覚こそ、こういう文学作品によって洗い流してしかるべきものだとすら言える。僕はさほど小説や詩や戯曲や漫画を読むわけでもないが、僕にとってそうした作品に触れて一定の時間を没頭する効用や意義というのは、そういうところにもあると思っている。
ということで、さきほど書斎で『ダイヤモンド広場』を再び手に取ってみて、他に翻訳がないものかと探してみたのだけれど、残念ながら他には翻訳されていない。訳者解説には、スペインにはカタローニャへのアレルギーのようなものがあって、カタルーニャ語で書かれた文学作品はあまり成功しないとの説明があるけれど、そもそも東アジアの辺境地帯では翻訳すらされていないわけである。だが、考えてもみれば、かなり以前にここで指摘したこともあったように、ブッカー賞の受賞作品ですら殆ど翻訳されていないし、翻訳されている作品でも大半が絶版になっていたりする。要するに、この国の読書家や文学好きな人々というのは、口先では村上春樹や川上未映子といった人々の作品を自分たちの身代わりとして海外に誇るための道具に使うようなキャンペーンには熱心だが、古典的な業績だとか、海外で現実に売れていて長く読まれている作品を翻訳したり読むという、まことにスタンダードで堅実な接し方をしないと言える。要するに、消費者までもが「小さな電通マン」にすぎないのだ。日本の文学好きや読書好きな連中、たとえば本屋大賞なんてものを嬉々としてプロモーションしている人々なんてのは、自分で自分たちを美化して喜んでいるだけのチンドン屋、俗物なのである。
したがって、やはり繰り返して言うように、すでに高校を卒業するときには英検2級あるいは準1級ていどを取得している人々は、もちろん日本語で書かれたものから優れたものを読むために日本語のまともな運用能力も必要だが、できるだけ日本の出版社のプロモーションからは距離を置いて学問や知識や芸術や情報というものを扱う方がよいと思う。僕が、「日本」に固執しないタイプの保守主義を奉じているのは、これも一つの理由である。