Scribble at 2026-07-29 07:48:15 Last modified: 2026-07-29 16:23:08
# ChatGPT Image 2.0 ちょっと分かりにくいイラストだが、わざとテキストを使わないように指示したので、こうなってしまった。
これまでに、アルバイトや派遣を除けば、僕は四つくらいの会社で役職に就いていた経験があり、経営レベルの会議に参加させてもらってきた。そして現職では20年に渡って、組織変更で肩書は色々と変わってきたものの、入社してからずっと部長職を拝命して経営会議に参加させてもらっている(なので、いよいよ代表の次に社歴が古い社員となってしまった)。
そういう経緯があっての上で書くのだが、幾つかの企業で経営レベルの会議に参加してきて、僕はよほどのことがない限りは、他の部門長、とりわけ営業やディレクターなどの「プロフィット部門」に属する部門長の報告に突っ込んだり質問しないようにしてきた。なんだかんだ言っても哲学を専攻していた人間だし、わずかではあるが営業の経験もあればマーケティングを学んだ経歴もあるので、僕の質問はいわゆる「そもそも論」になってしまうからだ。早い話が、人を単に原則や建前で詰めているだけになってしまうのである。聞いている方にしてみれば、そんなことができるくらいなら伊藤忠かリクルートに就職してたわ、みたいな話にもなろう。
たとえば、経営レベルの会議に参加していて報告を聴いていると、もうこれはどこの会社でもそうなのだが、風物詩を眺めて感想を喋っているような人がいるものだ。つまり売り上げがどうであれ、それを自然現象か、もしくは他人事のように扱っている。本当はこの時点でこっちは頭にきてるわけだが、もちろん令和のビジネス・パースンが昭和の営業部長みたいに灰皿を投げたりしてはパワハラだ。でも、頭にくるのは事実である。そういう次第なので、売り上げを伸ばしたり失注を減らすために何かやることを考えているかといえば、多くの人が決まって言うことは「これから対策を考えて、やっていきたいと思います」という政治家のように悠長な意見や感想である。でも、部門長は予実管理の責任者なのでコミットメントがあり、意見や感想を言う暇があったら決断して実行しなくてはならない。売り上げの結果なんて会議をやるよりも前に分かることなのだから、会議には対策をもってきて提案し、他の部門で手伝えることがないか、あるいは他の人から見て対策が有効かどうかを全社のスケールで話し合うのが効果的だ(とりわけ一定の投資が発生する場合。社外の営業代理店を使うとか、あるいはサービスを値引きするだけでも実質的に会社のお金を使っていることになるという自覚が必要だ)。そもそも異なる部署どうしで集まる経営レベルの会議というのは、そのためにあるはずだ。
僕が19歳の頃に僅かなあいだだけ営業マンとして経験した時代は、まさしく「昭和のサラリーマン」が活躍した80年代の終わりであり、バブルの真っ最中だった。渋谷にあった建材(『さいでりあ』という商品名のサイディング・ボードだ)の営業代理店に入って、最初の数日はマニュアルを使って営業プロトコルや立ち居振る舞いを叩き込まれた。靴は高級品の革靴ではなく階段を上る音がしないゴム底のものを履けとか、その手のこまごまとしたことである。それ以外にも、いまから思えばまったく酷い話が多い働き方や経営の企業が大半を占めており、もちろん現代の制度では違法とされていることも蔓延していたのだが、この時代のサラリーマンの思考や発想、つまるところ精神論には一つの見習うべきことがあった。それは、今で言う「自分事」として仕事を捉えていたということだ。もちろん、これは仕事の成否が自分の行動で決まるという傲慢でもありえるから、必ずしもここから常に良い結論が出てくるわけではない。実際、昨今の「自分事」というフレーズを振り回している本の中には、まるで仕事が自分の態度一つでどうとでもなるかのような短絡をバラまいている事例もある。名刺や胸のバッヂ、あるいは予算というお小遣いで仕事をしていただけという自覚がない元リクルートや元マッキンゼーなどの社員、それから起業家や投資家が書くビジネス書によくある、思い上がった発想だ。しかしとにかく、いまの仕事に関わっている限りは自分も何かをしないといけないという自覚は、みんな持っていたわけである。
ところが、いまどきの(「サラリーマン」から進化したらしい)ビジネス・パースンというのは、部門長ですら、何か予定調和的にサービスや商品が売れていればそれでいいだろうという、中小零細のくせに大企業の事業本部長みたいな発想をする。もちろん、下手に関わると責任が生じて無駄なサービス残業が増えるだけだからだ。それでいったい、給料が上がるのか・・・実はぜんぜん上がらないということをみんな知ってしまっている。上場企業ですら平均年収が300万円以下の業種もあるということを、いまでは小学生ですら知ってる時代だ。「責任感」だ「矜持」だ「やりがい」だ「プロフェッショナルの流儀」だ「ものづくり」だといった、ただの妄想や観念でコミットメントや責任を担わされるなんて、嫌なこった。上場企業や大企業の社員なら、業種によっては、世間や組合や株主や官僚や NHK などへの体裁もあって都内にマンションを買えるような年収になるかもしれないが、たいていの中小零細企業では、予実管理を徹底して目標を達成したところで、いまや物価上昇に追い付くていどの昇給すらしないのが現実だろう。信条としては理解できる。僕も、入社してから現在までの給与明細を改めて眺めると、20年間で月給が3万円ていどしか上がっていないことに改めて驚く(考えてみれば最初から部長なので1度も昇進してないし、会社も黒字だったことが殆どないから当然なのだが)。もちろん、これでも安定して食べてこられたし何千円もする本を買えていたのは、会社が借金しながらでも事業を継続できていたことと長期のデフレがあったからだ。つまりは、大状況が変わらない限り生活なんて楽にはならないという感覚が多くの人にあって、僕らが積極的に何かしたところで簡単には変わらないのも事実だという、いたずらに達観したような態度が蔓延しているようにも思う。まさに、1億総経済評論家か1億総経営コンサルのようだ。ただし三流の。
しかし、だからといって売り上げや経営を季節の移り変わりや自然災害のように眺めたり受け止める必要はないし、そうすべきでもない。少なくとも自分が拝命し担っている職務・職責については、それぞれの管掌でやるべきことがある。僕が言っているのは、その最低限ですらやっていないと思えるような人材が、どういう会社にもいるということだ。そして、経営というのは、Good to Great のような本でも書かれているように、そういう人々に再考を促したり改善や向上を働きかけてみることも重要だが、これまでの成果を清算して「バスから降りてもらう」という決断を下すことも重要な仕事の一つだと思う。もちろん、部門長としての任を解くだけでなくクビにしろと言っているわけではないが、たいていは降格するとプライベートな理由(家のローンだとか)で転職することが多いので、そういう結末も想定して後任も考えておくべきである。