Scribble at 2026-03-07 11:23:16 Last modified: 2026-03-07 11:28:44

ドメインだけの話ではなく、当サイトのコンテンツについても、これらを公開したり、それどころかわざわざこうして他人に公開する文章を書くなんてことまで含めてのことだが、もちろんモチベーションなどという話の以前に、何度も繰り返して自問自答を重ねてきている。

なんで、科学について、いや関心や興味やテーマがなんであろうと、自分で調べる切実さもない連中のために俺が科学哲学のテキストを作ってやる必要があろうか。これまでにも書いているが、僕は啓蒙とか、科学哲学に関する人々の理解を底上げするとか、そんなことは意図していないし必要ですらないと思っている。なので、最初から動機も事情も興味もない読み手が科学哲学の教科書を手に取ることはないと思うし、取る必要などない。そして、それは残念なことでもなければ不届きなことでもあるまい。

正直、科学哲学の勉強をしようとしまいと人は正しくものを考えたり生きていけるだろうし、科学哲学の勉強をしようとしまいと人は愚劣で堕落した人生を送ったり凶悪な人間になりうる。それだけが人の生きる値打ちや意義でないのはわかるが、他のどういう価値観や基準においてであろうと、科学哲学に携わり学ぶことが何か決定的な役割を果たすようなものではないだろう。

そしてそれは、熱意をもっている科学哲学のプロパー諸君には申し訳ないが、科学哲学を専攻していた僕自身にすら言えることだ。大学で科学哲学の代わりに細胞生物学や法哲学を専攻していたとしても、別にそれで僕の人生が価値の低いものになったかもしれないとは露ほども思わないし、科学哲学を専攻していたおかげで、手形・小切手法や量子コンピューティングを専攻するよりも豊かで充実した人生が送れているのだろうと妄想することなどない。

このようなわけで、僕がここで書いている文章であろうと、それから企画していた教科書であろうと、役立てたり関心をもった人が読めばいいだけのことであり、それが大学にいるあいだであれ、あるいは死に際の病室においてであれ、そんなことは重要ではないだろう。しかし、そういう意欲や動機や事情をもつ人々であればこそ、たとえば科学や知識というものについて関心をもつなら、およそ自分で調べたり考えたり、あるいは誰かと話すことから始めるであろう。なんで「科学哲学」と書かれた本を手に取ったり、科学哲学について議論してると称するサイトへアクセスしないといけないのか。それを、自分自身で納得していないような人に科学哲学を教えたところで無効であろう。しばしば、半世紀近く前のソヴィエトの教育心理学で言われていたらしい、「後から役に立つかもしれない論」で膨大な分野の詰め込み教育を子供に施すというアプローチが日本でもじわじわと教育者などのあいだに蔓延したからか、こういうことを考えたり言う人は非常に多いのだが、現実の学習心理学や神経科学の成果が教えるところでは、場当たり的に情報を詰め込んだところで、それらを活用したり理解する動機を欠いていたり納得できない場合は、脳もまた得た情報を即座に忘却してしまう。ここで文科省のような「生涯教育」の口真似をしたいわけではないが、必要なときに学べばよいし、それが中途半端であろうと未熟な理解に終わろうと、そんなことを避けるために本を書いたり勧めたり、あるいは学ぶことを要求するのは、現実的でないばかりか余計なお世話というものだ。

したがって、僕は意欲や事情がある人は勝手に学ぶだろうから、僕がわざわざ科学哲学について自分が知っている範囲の手ほどきなどする必要はないと思っている。そして、もちろん科学哲学に関心のない人や、関心もないくせに「科学哲学など必要ない」と他人に向かって言うような馬鹿を相手に何かを説得する気もない。ということは、そもそも(かつてストローソンが言ったとされるように)やはり教科書なんてものは、そもそも学校教育を前提にしていない状況では必要ないのであろう。

それ以外にも幾つかの理由があって、これまで公言してきた企画を正式に取りやめることにした。もちろん、その一つは、仮に必要だったとしても、僕が期待するようなアプローチのテキストを作ろうともしない無能な人々(意欲がないということも「無能」の一つだ)の代わりに作らないといけないのかという気がする。そのせいで学術分野としての、或る種の地盤沈下が起きるとしても、それは僕には関係のないことである。意欲や事情がある人は、この世に科学哲学という研究分野がなくなろうと、勝手に科学を学び、そして科学について「哲学する」ことだろう。それが、なんとか書店やどこそこ書房から出ている教科書や通俗本とは異なる議論であろうと、それを誰が心配する必要があろうか。われわれ科学哲学者のなすべきことは、科学にかかわるあれこれの概念や議論やテーマを哲学することではないのか。それとも、既存の教科書に出てくる、theory-laden がどうの、overdetermination がどうしたというケース・スタディをこなして博士号をとってから、ジャーナルに論文を掲載し、やがて「知の巨人」とか言われたり、文科省のなんとか委員になるのが科学哲学者の使命であろうか。こんなこと、哲学を専攻していたていどの自覚があれば自明であろう。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


共有ボタンは廃止しました。他人へシェアしてる暇があったら、ここで読んだあなたが成果を出すべきです。