Scribble at 2026-03-02 09:56:32 Last modified: 2026-03-02 10:00:48

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This essay propose an essay-meditation upon death as an “uneasy” phenomenon for digitised modernity. It analyses how AI changes constantly the view we have on our own selves, our forms of organisation, and our lives, and points to the tensions between an AI-centric immortal world and the finitude of our planet.

Who Wants to Live Forever? AI-Centricity as Ex-centricity of Death

この論文は、昨年の11月にウィーンで開催されたデジタル・ヒューマニズムの研究カンファレンス Interdisciplinary Science and Research Conference on Digital Humanism (DigHum 2025) で発表された。「デジタル・ヒューマニズム」とは、テクノロジーと人類の複雑な相互作用を記述・分析し、人権を尊重しながら、より良い社会と生活のために、それらの相互作用に影響を与えていくアプローチとして定義されている 。近年の AI サービスの台頭により、デジタル技術が民主主義社会や市民の生活に及ぼす影響への意識が高まったことが、この研究分野の背景にある 。

なお、僕も原則としてデジタル・ヒューマニズムのアイデアを支持している。企業で個人データの取得や利用・管理などに関するマネジメントを統括する立場の人間として、人の権益を中心にした情報の管理というコンセプトを大切にしたいと思っているからだ。われわれ知性あるものが、たかだか機械やプログラムや技術・技巧なんぞに左右されてたまるものか。それこそチンコが犬を振り回すようなものだ・・・いや、尻尾だったか。なので、社内でも、業務にあたってデータの運用に注意すべきなのは、それが何かについての「情報」だからであり、なおかつその情報が他人様の財産や権利に関わるからだと説明するようにしている。仮にそのデータが「1」や「0」というバイナリの記号であっても、その違いだけで他人の権利が侵害されうる(何かを「許可する」「許可しない」という違いを反映するデータかもしれない)という、機能や波及効果をネット・ベンチャーの従業員として正確に理解することが求められるし、サラリーマンたるもの、自分の行動や判断による波及効果を推論し予想すること(これは期待したり皮算用することとは違う)が、プロアクティブで効率的な仕事をこなし、生産的な成果を出すための秘訣であると説いている。そして、こんなのはたいていの凡庸な人でもやれることであって、僕のように大学院へ進んだりイケメンである必要はないのだ。

冗談はさておき、この論文は、急速に発展するAI技術が人間の死や自己のアイデンティティをどのように変容させているかを、人類学的・哲学的な視点から考察するものだ。特に「デジタル不死(digital immortality)」や、生前のデータを基に作成される「AI クローン(デジタル・ドッペルゲンガー)」が、死生観にどのような影響を与えるかに焦点を当てている。

まず幾つかの用語について触れておくと、「離心的位置性(ex-centricity / excentric positionality)」は、要するにゲームなどでよく使われる「三人称視点」のようなもので、自分自身を眺めるような構図のことだ。ナイーブな研究者は、これをすぐに「客観的」などと形容するが、こんなものが概念の意味として「客観的」であるはずがなく、いかに哲学のプロパーでも基本的な用語をまったく丁寧に勉強していないかが、こういうところでも分かる。それから次に「AI 中心主義(AI-centricity)」という言葉が使われているのだが、これはラッダイトや左翼によくある敗北主義や過大評価ではない。現代のテクノロジー文化が、価値観の軸となる対象を人自身から AI やデジタル・データへと移し替えようとしている状況のことだ(ひとまず、その是非は措く)。「意識のアップロード」や、AI による故人の再現(ジェネレーティブ・ゴースト)は、その象徴的な試みだという。

この論文の主要なテーマは、「AI による不死の追求は、人間特有の『死との向き合い方』をどう変えるのか」ということにある。そして、現今の AI を中心とする考え方を評している。

まず、西洋近代の思考において、死、すなわち有限性は克服すべき問題や制約として捉えられてきた。AI 中心主義は、人間の意識をデジタル・データとして外部化することにより、死を回避可能なバグのように扱おうとする。そして、生前から自分の AI クローン(プレ・モーテム・クローン)と共存することで、自己のアイデンティティが物理的な「自分」とデジタルな「自分」に分裂し、どちらが真の自己であるかの境界が曖昧になるリスクを指摘する。そうして、人間はもともと死を第三人称的に眺めることで生を規定してきたが、AI が永遠に続く「自己」をシミュレートし始めると、この反省的な距離感や視点が失われたり過小評価されることとなる。つまり、AI が死を覆い隠すことで、人間が「死すべき存在」として自己を理解する能力が損なわれる可能性を論じている。なんだか、実存主義みたいな話だな。

もちろん、これは論文の著者が、AI を通じた不死の追求という昨今のトレンドみたいなものを、自然や身体を完全に制御しようとする魔術的思考の一種として批判的に捉えているからだ。僕も同感であり、ピーター・ティールらのような IT 長者たちがナノ・テクノロジーやバイオ・テクノロジーや HCI の企業を続々と立ち上げて、とどのつまりは「不老不死」の研究をさせているのは、はっきり言えば金持ちに残された最後の欲求のはけ口にすぎないと思う。いつの時代でもそうだろう。昔なら仙薬を求めたりした連中が、現代では夢のテクノロジーを求めているというわけだ。しょてん、シンギュラリティ音頭も、その末端のスローガンとして、バカ専用にマスコミが振り回している空虚な言葉にすぎない。分析哲学者なら、こういうものをこそ言語分析してみたらだどうなのか。

ただ、この論文に一つだけ思う疑問として、ヒトが死すべき存在であるということが事実だとして、僕はそれを何か崇高で厳粛な価値があることだと見做すのは、端的に言って文学少女的なセンチメンタリズムだと思う(或る意味で、かつての実存主義が当時の文学少女に受けが良かったのも分かる)。ヒトもまた生物種の一つにすぎず、僕ら自身だって、東大教授であろうと、FX で財産を10億円もっていようと、どのみちただの個体として死ぬし、死ねば哲学も死生観の当否もクソもない。

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