Scribble at 2026-02-18 10:00:06 Last modified: 2026-02-18 10:04:13
Debates about the nature of free will, and whether human beings have it, are some of the most famous and longstanding in philosophy. In this paper, I argue that the term “free will” does not serve these debates well. This is not to say that the debates themselves are unimportant; on the contrary, they are some of the most interesting and personal in philosophy. My central claim is that the term “free will” is associated with problematic connotations that complicate these debates, which concern important issues in ethics, metaphysics, epistemology and several other fields. Fortunately, the term is unnecessary: we already possess the vocabulary needed to discuss these important issues. Moreover, I argue that a set of replacement questions can be formulated to permit a more precise treatment of these issues.
自由意志と決定論というテーマは、もちろん学部時代にアントニー・フリューとゴットフリート・ヴィージーの『行為と必然性: 決定論的世界観と道徳性』(産業図書、1989)を読んで服部裕幸氏の翻訳にいたく感心したものだった。産業図書の本はめったに重版されないので、これは古本として手に入れてもらいたい・・・と、ここで何か書こうと思ったのだが、食事のために離席しているあいだに忘れてしまった・・・という経緯を書いていたら思い出した。そうそう。こんなコメントは AI じゃ書けないだろうと言いたかっただけだった。
さて。アダム・ジョン・アンドレオッタによるこの論文は、哲学で長らく愛用されてきた「自由意志(free will)」という言葉に対して、思い切った引退勧告を突きつけている。著者の主張は極めて明快で、この用語がもはや議論を深める道具ではなく、むしろ思考を停滞させる足かせになっているというものだ。彼は、この言葉を哲学の語彙から取り除くべきだという「放棄テーゼ」と、それをより精密な問いに置き換えるべきだという「置き換えテーゼ」の二段構えで、対話の再構築を試みている 。
なぜ、そこまでこの言葉を嫌うのか。それは、この用語があまりに多くの、そして互いに相容れない意味を抱え込みすぎているからだ。或る科学者は「脳の物理的構造を外部から修正できる能力」を自由意志と呼び、或る哲学者は「自分の行動を制御できる能力」をそれと定義する 。このように各人が異なる定義を握りしめたまま「自由意志はあるか」と議論しても、それは実質的な対話ではなく、単なる言葉のすれ違いに終わってしまう 。さらに厄介なのは、この言葉が持つ強力な情緒的ニュアンスだ。この用語は、道徳的責任や自己のアイデンティティといった個人的な感情と深く結びついており、客観的な分析を阻むバイアスとして機能してしまっている 。
著者は、僕らが本当に守りたい価値、例えば「或る行為に対して責任を問えるか」といった実質的な問題は、自由意志という言葉を使わなくても十分に議論可能だと説く 。決定論と自由意志の対立をこねくり回す代わりに、「因果的な決定は道徳的責任を無効にするか」と問い、リベットの実験結果を前にしては「意識的な決定に因果的な役割があるか」を問えばいい 。曖昧な用語を捨て、より解像度の高い具体的な語彙に置き換えることで、議論はより扱いやすく、建設的なものへと変貌する 。
もちろん、この過激な提案には反論も予想されるだろう。自由意志という言葉を「未知の制御能力」を指し示すプレース・ホルダーとして残すべきだという意見や、自由意志を捨てるなら「道徳的責任」や「正義」といった他の概念も捨てるべきだという極論だ 。しかしアンドレオッタは、自由意志が引き起こす混乱のコストはあまりに大きく、また「道徳的責任」などの概念は自由意志に比べればはるかに強固な共通基盤を持っていると一蹴する 。結局のところ、自由意志という迷宮から抜け出す最短ルートは、その入り口に掲げられた看板自体を外してしまうことなのだ。
論文の第2節を見ると、リベットの神経科学的な知見や、サポルスキーのような科学者による決定論的な主張が、いかに「自由意志」という曖昧な言葉の上で空転しているかが詳細に描かれている 。サポルスキーは「脳の物理的なプロセスに影響されない独立したニューロンの活動」を自由意志の条件として要求し、当然そんなものは存在しないと断ずるけれど 、一方で哲学者のリストなどは、単に「代替的な行動を選択できるエージェントの能力」を自由意志と呼んで、それは存在すると言う 。ここでは、何が事実であるかという議論以前に、双方が「ハエ採り壺」の中でバタバタしているような状況が生まれている。
ウィトゲンシュタインが「哲学の目的は、ハエに対して、ハエ採り壺から抜け出す出口を示してやることだ」と考えたように、アンドレオッタもまた、言葉を整理することでその出口を指し示そうとしている 。彼は、自由意志という広すぎる言葉を使い続けるのではなく、「道徳的責任(moral responsibility)」や「意識的な決定(conscious decisions)」といった、より具体的で検証可能な問いに分解することを提案する 。そうすることで、私たちは「物理法則に縛られた操り人形なのか」という実存的な不安を伴う「哲学と称する何か」の壺から抜け出し、現実の社会制度や法的な責任のあり方を、より建設的に議論できるようになるというわけだ 。
この論文じたいも概念分析の一例ではあるけれど、しかし全体としては昨今の流行である「概念工学」という自己目的化したアプローチへの間接的な批判になっていると思うんだよね。正直、オブジェクト指向のなんとか、あるいはなんとか実在論とか、圏論を使ったインチキ数理哲学、あるいは概念工学にしてもそうだけど、科学哲学の立場から言って、こういう「理系っぽい」フレーズで何かナウい哲学であるかのようにプレゼンして回るというマスコミ受けのパブリシティしか能が無い連中というのは、まことに恥ずかしいし、こんな連中の書いたものなど数年も立たずに BOOK OFF のワゴン・セールに加わるだろうと思うね。
僕も基本的に著者に同意だ。どれほど長く使われてきたのであれ、概念や用語にはアップデートするなり置き換えるなり、あるいは廃棄処分するなりした方がよいものがあって、用語や概念どころか知識や学問・研究分野の区分ですら、一種のライフサイクルというスキームからは逃れられないし、逃れられると思い込むべきでもない。したがって、もちろん「哲学」とよばれていることがらも例外ではない、という意味もあって、僕は Quinean なのだ。それに、そもそも自由意志なんてのは宗教的な背景があって持ち込まれたわけであって、なんでこんなものをわれわれ哲学者が何百年も代わりに議論してやる必要があろうかと思う。