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500ページを30分で読む!? 科学が証明した“スキミング”読書術とは?

「読書家」を自称する人間に博士号なし、とか「速読家」を自称する人間に企業の経営者や資産家や学者なしというのが僕の経験則である。そもそも、こういう個人の経験にもとづく錯覚を無自覚に「速読術」などとして売り込んでいる人々というのは、その多くが妙な野心だとか悪意がない。だからこそ、この手の凡人の自己欺瞞というものは厄介で、手に負えないのだ。

われわれ哲学者は、本来ならギリシアの時代からこういう自己欺瞞を徹底して指摘したり難詰するべきなのだが、哲学者自身も生活のために政治家や金持ちや教会の権力者に取り入る必要があって手加減してきたという黒歴史があり、そしていまではパブリシティだとか大学でのポジションというものによってしか哲学を講じられないかのような錯覚を抱いている人々が(プロパーにおいてすら)大半なので、なんにも言えない。やれサバイバルだのケアだのと言っては見ても、しょせん都内の出版業者や三流教員は、勉強する気もない連中に下駄を履かせるような「やさしぃい」(キャバ嬢風)哲学ごっこしかできないわけである。

もちろん、科学哲学においても疑似科学だのカルトだの反ワクだのネトウヨだのという連中を相手に幾つかの書き物を出している人々はいるが、たいていは気取って「分析」しているにすぎない。しかし、疑似科学のなんとかといった書籍を出しておけば一定のポジションを確保できるなどと高をくくっていようと、甘く見ている彼らがトランプ政権なり高市政権なり参政党なり N 党なり竹中パソナを実質的にサポートしかねないという現実を押し返すことなんてできないわけで、ただ単に流されていく状況に、それこそ特別な名前を付けて分析して見せては喜んでいるだけだ。なんといっても、自分たちはそういう連中の支配だとか影響を受けない安全なところにいるという、彼ら哲学教員自身が落ち込んでいる致命的な自己欺瞞はどうしようもない。

ともあれ僕は、高校生の頃から学校で「速読はインチキだ」と公言してきたし、会社でも、あるいは当サイトのような場所でも同じように言っている。そして、それはただの信念とか反感とかではなく、個々の時代に応じた研究成果や議論を参照し続けているわけで、そういう40年ていどの研究成果の積み上げを参照しながら言っているわけで、もちろん僕自身も速読術に関する本を読んで色々と試したことはある。或る特定の分野とか用語だとか議論のスタイルに、ただ多くの文書を読むことで慣れてくると、読みやすくなるという意味では突っかかりが少なくなる。これは事実だろう。でも、こんなことの積み重ねで「500ページを30分で読む」なんていう、眼の生理学や認知科学から考えても非科学的としか言いようがない、つまりはオカルトをどれほど言い立てようと、そんなものは読んだ気になっているだけの錯覚である。それは或るテーマの本などに持っている自分自身の偏見や雑な理解や思い込みを投射しているだけのことでしかなく、もう少し(或る意味では辛辣だろうが)はっきり言えば、サイコパスによくある傲慢さの一例でしかないのだ。

ヒトが一度に鮮明に認識できる視野(有効視野)は非常に狭く、一度に数行を同時に眺めるどころか読むなんてことは、視覚の構造から言っても不可能なのだ。となりの行と合わせて「ど本い」などとなっている一塊の視覚情報を、それぞれの行において並列に見て取るなどという能力は、ヒトの認知能力にはない。また、仮にそんなことが視覚として可能であっても、今度はワーキング・メモリの限界があって処理不能である。それは、たとえ1行ずつ、1文字ずつ読んでいようと確実にある限界だ。

こういうことを言うと、僕も確かに二つ前の段落で「多くの文書を読むことで慣れてくると、読みやすくなるという意味では突っかかりが少なくなる」と言っているし、スキミングには重要なポイントを見つけるという効用があるではないかという反論が出てくる。だが、僕が述べた「突っかかりが少なくなる」ていどの効用を遥かに超えて、500ページを30分で読むだの、毎日10冊読むだのというアイドル歌手の「意外な一面」みたいな話をどれほどバラ撒いても、われわれには明白な事実の積み上げがある。それは、その手のことを言っている連中で大学教授になったり企業の経営者、つまりは社会的に成功した人物など一人もいないということだ。もちろん、その手の世俗的な「成功」だけが全てではないにしても、そういう動機によって「速読」とやらの成否が決まるわけでもなし、野心をもって速読する人だってたくさんいるだろう。でも、どれほどいたのであろうと、事実として世俗的な意味での成功者すらいないのだから、それらの「速読」が何ほどのものであるかは推して知るべしだ。その手のセコいセミナーをやったり、上の記事を書いている詐欺師のように本を延々と表装替えしながら出版し続けようと、既にわれわれの歴史が「速読」の無意味さを証明しているのだ。

また、その手のスキミングは単なる読み手の偏見や背景知識の押し付けになっていることも多く、いわゆる確証バイアスの見本みたいなものだとも言える。簡単に言えば、バカが、バカな経験しかないくせに、バカな思い込みで、バカな理解を押し当てて喜んでいるにすぎないのが、「速読」の実態であろう。また、この手の「速読」や「多読」あるいは読書家を自称する連中に多いのが、もちろん批判的な読解の欠落だ。文学作品を大量に読んで玩味するのですら、全く無批判なまま読みふけっているだけは、ただの未熟でステレオタイプな「お花畑の文学少女」でしかない。あるいは、読書がいくら情報処理の一つであると、ナウい言い回しで飾りてたてようと、われわれのような科学哲学者には通用しないのであって、そんなものはしょせん AI のトレーニングにも劣る。

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