Scribble at 2026-01-14 09:09:16 Last modified: 2026-01-14 09:46:18

現在のアメリカが陥っている(と表現するのだから、現況が良くないと思っている)状況を指して、たとえば「ゲーデルはこのことを予言していた」などと言う人がいたとしよう。知られているところによると、ゲーデルの逸話として、彼がアメリカの市民権を得ようした際に、審査官を前にして、合衆国憲法には独裁者を生み出すような欠陥があると発言したらしい。その場に同席していたアインシュタインが取り繕ったなどという話も挟まれていて、僕はそういう話の証拠やソースを一度たりとも日本人の書いた著作で見たことがないのだが、ともかく日本では好事家に知られている話であろう。もちろん、こんなもん知ってなくても大学院には進学できる。

で、そういう話をあれこれと知ってるのが人文系の研究者だというのが世間的なイメージなり理解であろう。そして、それゆえに多くの人々は人文系の研究が役に立たないと思っている。実際、そんな逸話を知っていようといまいと、あるいはその逸話が本当なのかどうかについて何らかの証拠や論証をもっていようがいまいが、それだけのことで不完全性定理についての理解が進んだり深まるという保証はなにもないからだ。現に不完全性定理について、この逸話を引き合いに出して、何か有意義な議論が成立した試しなど一つもないであろう。そして、たぶんこれから500年が経過しても、そんな議論は出てこない。

僕が思うに、どうしてこういうことが世界中で延々と続けられているのかと言えば、もちろん全くの無駄・無意味ではないと思うのだが、やはり教育の悪影響が理由として考えられる。つまり、大学の授業でよくある、「問題意識」を持てというやつだ。こんなことを学生に要求する授業を受けていると、思いつきや些末なことを、「哲学として考えるべき」何か意味のあることだと過大評価する思考に支配される恐れがある。

でも、学生が授業や卒論で教員から求められる「問題意識」なるものによって捻り出された、たいていはどうでもいいバカみたいなテーマに比べて、僕のような権威主義者は敢えて「もっと有意義なテーマ」という断定をするのだが、たとえば自然法則についてはどうだろうか。大学、いやそれどころか恥ずかしくも大学院ですら「問題意識をもて」などと言われかねない日本の教育を受けたみなさんに聞きたいが、これまでに自然法則について論文を1本でも書いたことがあるだろうか。もちろんないであろう。『科学哲学』のバックナンバーを遡っても、自然法則について真正面から論じた論文などない。もちろん、僕もそういう論文を書いたことはないから、ここで述べている議論は自然法則という重要なテーマについて論文を書いたことがない誰かを罵倒するためではない。

しかし、そうではないにしても、やれジャズの分析哲学だの、エロアニメの科学哲学だの、キャバ嬢の言語哲学だの、あるいはデリヘル現象学だのといった、愚にもつかない本を書いたり翻訳したりイベントを開いている連中は、特に都内や京都のような無能でもどこかしらの大学に居残れる土地にはたくさんいる。僕は、そういう些末なことをやり続ける自意識にも何らかの臨床的あるいは社会学的な同情の余地はあると思うけれど、やはりそういう人々が他人(の子供)を教えるというのは、どう考えても文化的な悪循環のように思える。

だが、こういう意見を表明すると、脊髄反射のように「哲学は普遍的なので、テーマは何でも良い」と反論する人たちがいる。しかし、このような減らず口こそ哲学史において誰も論証できたことがない、寧ろ暗黙の前提であり、コミットしている自覚すらないプロパーが大半なのではないか。なんで哲学は普遍的なの? 普遍的じゃないといけないの? こういう質問すら自問せずに、せっせと第二外国語の単語を暗記していたのが君らではないのか。

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