Scribble at 2026-01-13 16:50:27 Last modified: 2026-01-13 16:50:48
すごくプリミティヴな話題なのだが、ただいま Gemini と壁打ちをしていて、テーマは「概念と観念」である。哲学の学部レベルの講義でも、実際には正面切って取り上げられ教えられていることが殆どないにもかかわらず、大多数のプロパーは正確な理解もせずに使っている「言葉」だと思う。なので、参考にと内山先生の翻訳によるアリストテレスの『形而上学』が出版されるのを待ちつつ、こうやって壁打ちを続けているのだが、果たして壁打ちはどれくらい続けられるのであろうか。
もちろん、こういう壁打ちが原則として生成 AI の欠点とされているメタ的な観点でのツッコミを無視しているのは事実だ。たとえば、典型的なツッコミなら記号論をやっている人なら簡単であろう。ただ、僕はもちろんニューアカ・ブームの真っ只中であった1980年代に記号論を知って解説だけは色々と読んだけれど、どうも自分でも正確に表現できない「胡散臭さ」を覚えて、コミットしなかった。本当のところ、この他にもポパーの「世界III」というアイデアにも似たような「胡散臭さ」を感じているので、これもまたコミットするのが難しい。
一元論は言うに及ばず、二元論が短絡化であることは確かなのであろう。それはよく分かるが、だからといって「第三の道」だとか、あるいは認知科学を無視したまま「全てはわれわれの(あるいはテクストの)~である」などと言って、メタ思考を装った一元論を言い立てるというのは、どうにもコミットするに値しないものがある。前者は容易に思弁の道へ陥るし、後者も容易に「思想的なマーケティング」なり単なるお喋りに堕するという、明白な歴史を僕らは知っているからだ。特に記号論を語っていた建築家のつくったゴミのような建物なんて、1980年代に続々と登場しては、いまや日本に殆ど現存していないであろう。
つまりは、僕がここで何度か言っているように、単なる現象論だけで片付けていてはだめなのだという、われわれがどこかに抱いている信念のようなものへ何も答えてくれないのだ。文芸、特にこの手の「格好いいスタイルのお喋り」が大好きなアニメ評論家などが好んで使うわけだが、「~は記号である」と言ったところで、それがどうかしたのか? と言いたい。そういう気分が常に起きるのだ。記号だからなんなの。それが? こういうことに、なんだかんだ言っても40年前から何にも答えが出てこないし、まともな答えだと思った著作に触れたこともない。自意識にとって便利なフレームワークへ、難解なことからありふれたことまで、なんでも回収できることを喜んでるだけじゃないか。