Scribble at 2026-01-09 19:26:07 Last modified: 2026-01-13 15:53:52

もちろんテクノロジーなり道具について、哲学、なかんずく科学哲学のテーマとして考えたり論じるのは、特に問題がない。寧ろ、日本ではこの水準の議論が少ないと言えるほどだ。しかし、個々のプロダクトや理論について、現在ならコンピュータだとか生成 AI について、科学哲学者なり哲学者が考えたり論じるのは、はっきり言えば自意識過剰というかセンチメンタリズム以外のなにものでもないと思う。この違いが分からない無能なプロパーは、僕の議論についてこなくてもいい。学部からやりなおすことだ。

そのようなわけで、かなり前にも書いたことだが、「ChatGPT の哲学」なんてものは暇潰し以外のなにものでもなく、実際にこんなテーマで書かれた論文や本がどれほどあろうと、科学哲学や哲学として 1 mm も何事かを前進させたり展開した業績にはなっていない。それこそ、なんとか実在論と称する科学哲学の猿真似だの、オブジェクト指向の哲学だのという御託と同じレベルである。

そもそも、20年くらい前を振り返ってみても、「スマートフォンは電話であるべきか、それともカメラであるべきか」を真面目に論じた科学哲学者などいなかったはずで、それは生成 AI が無償の TA であるか、それとも有能な助教授であるかを論じようとする人がいな・・・いや、いるか、ともかく、そういう人がいたとしても、そこから何か有益な議論や結論が出てこないのと同じである。確かに、テレンス・タオはこの手の議論をしているように見えるが、彼は現実に生成 AI を積極的に活用していて、単独の人間としても多くの実績を積み上げているのに加えて、更に生成 AI を活用して成果を出そうとしている (*1)。この生産性は目を瞠るべきであり、そのうち論文の数だけで言えばエルデシュやシェラハの記録なんてドクター時代に追い越してしまう人が出てくるだろう。事実、NotebookLM などに適切なプロンプトとソースを与えて解析させたり論文の下書きを提案してもらえば、極端なことを言えば Analysis に掲載される程度の数千ワードの論文なら、毎日2本ずつでも書けるからだ。そして、それがいけないという根拠は、いまのところない。哲学者が「生産性」を語ってなにがいけないのか、というわけである。

僕は、この結果として、一時的にはピア・レビューの負担が極端に増えるかもしれないが、そのうちピア・レビューそのものがエージェントによって自動化されるため、生成 AI どうしのラリー勝負によってレフェリー制度が確立するように思う。そして、ジャーナルへの採用数だけでは評価できなくなって、皮肉なことにジャーナル・アカデミズムは形骸化することになるだろう。東大暗記小僧やアイビー・リーグのサイコパスな人々が得意とするディベートやクリシンによるマウンティングでは決着がつかなくなって、逆に哲学的な思考なり哲学的な議論とは何であるかを再考することになるのではないか。それは、まさに浅田彰氏が40年前に『ヴィデオ・エヴォリューション』というフジテレビの深夜番組で語った、行き着くところまで徹底的にテクノロジーを展開した先に見えてくる次のステップというものだろうと思う。

まぁ、その「次」が見えてくるまでに俺は死んでると思うから、どうなるかは分からんがね。

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*1: https://mathstodon.xyz/@tao/115855840223258103

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