Scribble at 2025-10-30 19:38:22 Last modified: 2025-10-31 14:09:52
大学の数学を取り上げている大多数のテキストが欠陥商品であるという議論を繰り返すと、いかに教科書の書き方や構成といった方針について丁寧に考え、また本文や序文にすら方針の説明を盛り込んでいても、誠に残念ながら、たいていは言っていることとやっていることに大きく明白な乖離がある。非常に興味深い議論が多くて参考になる、渕野さんのテキストですら、既に指摘したとおり色々な問題があるのだから、いわんや他の教科書をやといったところだ。
たとえば、高校数学に幅広く論理学を持ち込むという方針で参考書を書いている長岡亮介氏も、教科書の制作について一家言を持っているかのような文章を序文に書いていることが多い。だが『線型代数学 入門と展望』(現代数学への誘い、ブレーン出版、1991)の冒頭(2ページ)に、早くも「初等超越関数」などという用語が定義も説明もなく「焼きそば」や「スマホ」といった言葉同然の気楽さで使われており、しかも理工系の学生として教養課程の数学を学んでいることが当然であるかのように仮定されている。確か、線型代数学というのは教養課程で学ぶ科目ではなかったのか。このように、これから説明する(いやそれどころか、いつ学ぶのかも分からない他の分野の)用語を無定義に乱用する数学プロパーの傾向は、僕のようになんだかんだ言いながらも数百冊の数学テキストに目を通している人間に言わせれば「性癖」と言いたいほどのものであり、しかるにその影響を巡り巡って色々な科目で被っている僕にとっては数学を教えている人間にとっての「業」とすら言えるもので、その迂闊さや未熟さは避け難いのかもしれない。
だが、多くの人にとって未知の専門用語を振り回すような事例に限って、そういう冒頭の箇所で使う効用がまるでないのだ。三角関数や対数関数を「超越関数」という特別な言葉で指し示したところで、それが線形代数の入門において何の意味があるのか、まるでわからない。そこで立ち止まり、辞書を引いたり、あるいはググったり、いや現代ならチャッピーに質問して何かが分かったとて、それがなんだというのか。
もちろん、これは些事というものであろう。そして、そういう些事を見つけたくらいで、いちいち立ち止まって悩むなどと論理的な態度をとってはいけないのが数学の学習であり、数学を学ぶとは論理的にものごとをとらえることではなく、「数学的センス」と呼ばれるオカルトか天賦の才によって教科書を一気に通読することなのだということだったのだろう。科学哲学者が数学の教科書に疑問を投げかけるまでは。かような、実は教科書を読む必要なんてない「けいさんがとくいなぼく」の才能だとか、あるいは東大暗記小僧の膨大な解法や定理の記憶だけが数学のテキストを読むための必要条件であるというなら、そういう学科は正直なところ単なる「ツール」として成果だけを利用すればよく、敢えて門外漢が学ぶほどのことなのかどうか、疑ってもよいと言える。
なお、僕は教科書に一点でも不備があれば駄目だと言いたいわけではない。ただ、その場所が問題であって、序文に未定義の用語がありがちなのは、同業者への批評なり牽制を目的に序文が書かれることもあるから仕方ないのだが、冒頭の数章分に不備があるものは、「ワンストライク・アウト」の方針をとっている。そもそも冒頭の数章は著者が最も注意を払って導入部分を構成し推敲している筈であるから、ここに不備がある教科書は出版物として何か基本的に問題があるとしか思えないからだ。そして、冒頭だけで判断しないと、「もう少し後まで読んでもらえれば」などと、一度の限られた人生しかない他人に博打のようなコミットメントを要求するのは、明らかに無責任であるか傲慢というものだ。書籍を購入した読者においては、商品に対する第一印象や(書店で表紙や目次を眺めるだけで判断したり)、冒頭の数章を読んだうえで是非を判断してもいい、消費者としての特権があるのだ。そこを乗り越えられない本は、しょせん商品として未熟な設計の欠陥品である。