Scribble at 2025-10-01 12:49:37 Last modified: 2025-10-01 15:14:51
恐らく生成 AI なんぞにアウトラインを作成させてもできないことだと思うのだが、テキストの構成として、まず二つのスタイルが考えられる。
一つは、下準備となるような関連分野を講じて、主題である科学哲学を学ぶにあたっての基礎知識を積み上げるものだ。日本に限ったことではないが、こういうアプローチを採用する教科書は非常に少なくて、実質的には著者が読み手に「素養」として想定したり要求していることが多い。なので、「高校卒業ていどの知識があれば読める」うんぬんなどと書く教科書は多いが、たいていそれは著者らの狭い経験だけにもとづいており、事実上は「灘高校を卒業したていど」とか「日比谷高校でトップの成績を修めたていど」とか「駿台全国模試で二桁台の席次ていど」といった意味であり、そもそも教科書なんて与えなくても自分で勉強するであろうという人物を思い描いていることが多い。たいていの(とりわけ数学の)教科書が「修士の学生しか読めない本を高校生向けに書いたと称する欠陥商品」であるのは、そういう理由がある。世間知らずが本を書くとこうなるという典型として、社会学者が標本にして調べてもいいと言えるほどだ。
なんにしても、この手のアプローチを採る教科書は、日本には皆無だし、こういう教科書を出せる出版社もないであろう。論理学、科学史、哲学史、あるいは個別の研究分野を取り上げた内容を下準備のコンテンツとして積み上げるだけでも、数百ページにはなるだろう。それに加えて本編の科学哲学の概論が続くのであるから、アメリカで使われている理数系の1,000ページを超えるような教科書を出せる財務的な余裕がある出版社でなければ、難しい。本来、こういう野心的と言ってもいいテキストは、有志が集まって学会を中心に PDF なり ePub 形式でリリースしてもよいとは思うのだが、ぶっちゃけアメリカですらそんな科学哲学のテキストは存在しないのだから(せいぜい個人かグループで論理学関連のテキストをオープン・アクセスでリリースしているくらいだ)、ジリ貧の日本の学術研究コミュニティでは難しいと思う。もちろんだが、「独立研究者」なんぞにこういうものを作る知性も素養も意欲もないのは知ってるから、僕はかようなパブリシティのことしか考えていない「似非アマチュア」になど期待しない。
ただし、こういうスタイルのテキストが理想かと言えば、もちろんそうとは限らない。まず思いつく懸念としては、適切に構成したり表現を選ばないと、科学哲学がそれら基礎となる分野の「折衷」だとか「応用」であるという偏見を与えることになるからだ。以前も指摘したことだが、科学哲学を「科学と哲学のあいだ」とかなんとか、その手のベン図に訴えるイージーな妄想で解説したり理解しているような人々に、こういうスケールの概論を任せるわけにはいかない。
そして二つ目が、直に科学哲学のテーマへ読者を導くようなスタイルだ。これは、もちろん通俗書や一般向けの本ではお馴染みだし、概論でも導入部で具体的な話題に即したケース・スタディを経てから本題へ導くという手法を採っている教科書もあろう。これは、読み手の関心、目的、動機、経緯、事情などが科学哲学で展開されている議論に沿っているなら、読み手にとって最善の導入になる可能性はあろう。つまり、自分の興味や自分の問いを引き受けてくれる学問だという実感が得られるからである。
しかし、もちろんこういうアプローチにも看過しかねる欠点がある。それは、自分が関心をもつ一部の議論や概念と関わりがあるからという理由だけで、他の色々な論点や議論について「考えなくてはいけない」かのようなバイアスを生みやすいということにある。とりわけ、教育制度として哲学を学んでいる学生には、こういう傾向が多い。分析哲学の学生だからウィトゲンシュタインを読むとか、科学哲学を専攻しているから説明理論を知っておこうとか、そんな必要は全くないにもかかわらず、或る分野とか学派といった帰属意識が刷り込まれると、そこで展開されていることが全て「僕のこと」であるという、逆セカイ系と言ってもいいような状況へ陥る恐れがある。
だが、実は哲学を専門的に学ぶということは、そういう偏見から可能な限り距離を置いて自由になることだという大切なポイントが分からないまま機械的に卒論を書くだけで大学を出ると、教科書のコピペみたいなことを言ってるだけの人物が量産されてしまう。いわゆる、哲学科出身と称して古典の片言隻句を口走るだけの、愉快で愚かな連中だ。実際、一般向けの本や通俗本の熱心な読者には、この手の自己欺瞞へ陥る人々が多く、確かに独学ゆえのリスクとは言えるが、避ける方法や改めるチャンスはある。そうでなければ、まさに独学だけで修士課程へ進んだ僕自身が、こういうことを書けるわけがない(僕は学部時代は法学部法律学科の学生として、法哲学、法社会学、刑事法学を専攻していた。学部時代に哲学で指導を受けた恩師はいるが、授業を除けば哲学に関連して教えられたことは少ない)。
それから、後者のスタイルは一般向けに多いためか、学術的な脈絡や論点に関連付けようとする、かなり強引な喩え話やケース・スタディを盛り込もうとする傾向がある。たとえば、科学哲学の例ではないが、倫理学の議論を導入したり紹介するのはいいとしても、いきなり戦争だの堕胎だのレイプだのとショッキングでセンセーショナルな話題を持ち出しても、そんなことだけで人がなにごとかを深刻に考えるなんて妄想は捨てるべきである。かといって、逆に隣の席で同級生が鼻くそをほじって机になすりつけるのをどう注意すればいいか、みたいなレベルの話をしても、そんな雑事を持ち出して何になるのかという読者の方が多いだろう。鼻くそで倫理学なんて。そんな、発達障害を疑われるほどの執拗さを鼻くそていどで口にすることが倫理学の効用なのか、というわけだ。で、なんでそういうミスマッチや愚劣な読み物を書いてしまうのかと言えば、これは僕に言わせれば簡単な話であり、自分たちで考えたり議論している倫理や科学哲学の議論や結論を、自分の生き方や生活に当てはめたことがない人間が哲学の教科書なんぞを書くからだ。自分が雷に打たれたり色盲になったという想像もしないで、メアリーがどうのと議論したところで、それこそ空論であろう。