Scribble at 2025-09-26 12:53:51 Last modified: 2025-09-26 12:54:11
人が他ならぬ人として産まれて生きている限り、何らの偏りも躓きもなく物事を考え、しかるにそれを何らかの話題について適用し、その成果を書き表すというのは、不可能だと思う。したがって、たとえば性差別に反対する男性の一人として何事かを考えたり書く場合に、最初から偏りなしに何かの議論をするとか、あるいはフェミニズムなり女性史を学ぶことなく企業の部長として採用の方針を考案し策定するなんてことはできないと思うんだよね。
つまり、「俺はフェミニズムに賛同してる『から』、女性を差別しない採用基準を考えられる」なんて言うやつこそ、実際には信用に値しないと言える。そして、そういう人物に限って、自分が色々な脈絡や事情においては女性を差別しているも同然だと指摘されると、簡単に逆上するものだ。俺は公正で、女性のために尽くしているというのに、なんだその態度は! みたいな調子だ。そして、やがて「俺は、わざわざ女なんぞのためにこうやって気を遣ってやってるんだ」みたいな偽善者の本性を現すこともある。
僕は MarkupDancing では偽善者だと自称しているが、もちろん善人のフリなんて哲学者がやるわけもないのであって、僕がやっているのは「私は偽善者だと称する人物」でしかない。果たして、そういう人物が本当の偽善者なのかどうかは、実は僕が決めることではないのだ、ということを訴えるために、そういうことを言っているにすぎない。いわば、或る種のトレーニングである。そういや、伊勢田さんは倫理学もやってるから新書を出していたな。また、前の本と同じくトレーニングがどうとか帯に書かれていた印象が残っているけれど、うーん。道徳とか倫理って、そういうものなんだろうか。
ともあれ、口先でフェミニズムを支持するなどと言ったくらいで公正なものの考え方ができるなどという魔法は、哲学には(いや、あらゆる学問においても)存在しない。そんな自意識プレイでまともな社会科学なり哲学ができるくらいなら、俺なんか小学校の頃にでも大学教授になれたであろう。僕が思うところでは、かなり多数の認識論や論理学の研究者が、「間違えたくない」とか「恥をかきたくない」といった、切実かもしれないが、しょせんは子供じみた動機で学んだり研究しているのではあるまいか。そうした動機が行き着くところは、つまり「最初から間違えたくない」という、実は人には不可能なことを夢見ており、それは僕が冒頭で取り上げた、最初から偏りなしに採用基準を考案したいなどと願う、思慮の浅い人事担当者と同じ話なのだろうと思う。そんなことは、不可能なのだ。
だが、だからといって偏見を不問にしたり免罪したいわけではなく、他のあらゆる差別と同様に、差別していることを自覚したときにどうやって改めるかが問われるのだ。ちなみに、クズみたいな哲学の俗書を手掛けている都内や地方大学の無能ども・・・というのは差別ではない。眼の前に空気があることについて、「眼の前に、色や様子はわからないが空気がある」と発言することは、差別ではなかろう。