Scribble at 2025-09-13 21:34:21 Last modified: 2025-09-13 21:53:28

以前も書いたことだが、自分自身も含めて生物としての個体である自分が何事かに興味をもって、調べたり、学んだり、考えたり、あるいは議論するというときに、その事情や脈絡を自覚するなり理解しておくことは大切だと思うけれど、それがどういう分野の話なのかということが、果たしてそれほど重要なのかという疑問を感じていた。そもそも人が何かを知ったり考えたり論じるにあたって、或る対象なり或る話題には、それを正当に取り扱うべき専門分野とか学問的な相関というものが決まっていて、しかもそれは永久に固定しているかのようなことを言う人がいる。というより、たいていのプロパーはそう考えており、そういう認知的なフレームというお膳立ての上でノベール賞やフィールズ賞をもらったりハーヴァードや北京大学の教授となり、あるいは小平の高速道路とスピノザ、エロ漫画と郵便局、サバイバルの役人哲学などを語る俗書を撒き散らしているらしい。そういうお膳立てを共有している学術研究のコミュニティが成立しているからには、擬制であろうとなんであろうと、一定の活動を保証してくれるような「専門分野」があるというのは、もちろん世の中の仕組みとして妥当であろう。

僕もかつては「分析哲学」と呼ばれてきた類の分野に関連があるとされる論文や著作物を熱心に読んできたし、またそういう類に分類されるような文章を書いてきた。そうして今度は「科学哲学」と呼ばれている分野を学術的なスタンスなりアプローチなり、あるいは自分が関心のある話題を集めた束みたいなものとして設定し、修士論文を書いたり、果ては博士課程にまで進学したわけであった。しかし、それが社会的な流れや歴史的な経緯、あるいは教育制度上の要求に応じてつくられている擬制であることは自覚しているし、擬制だから悪いと言いたいわけではない。だが、こういうことを真面目に考えたことがないと思われるような人々が、自分が属しているという自意識の拠り所とか所属学会について語るときの、はっきり言って愚かな喩え話というのは、分かりやすい図像的な偏見なり思い込みをバラ撒く文化的な犯罪だとしか思えないわけである。

例を挙げる。たとえば、「科学哲学とは『科学』と『哲学』の中間の分野である」だの、「科学哲学とは『科学』と『哲学』のクロス・オーバーである」だの、あるいは「科学哲学とは『科学』と『哲学』の醜悪なキメラである」だの、記述的であれ、肯定的であれ、あるいは否定的であれ、これらの愚かな喩え話を語るような連中の御託を、僕らは物心ついてから何度も見てきた。いかに僕のような者であろうと、若い頃には馬鹿げた通俗本を何冊も読んできた経験があるからだ。こういうことは、システム開発やヘルプ・デスクの仕事と同じで、失敗してきた(そしてそれをリカバリーしてきた)経験によっても企業人・職業人は鍛えられる。

しかし、そういう失敗によって鍛えられるからといって、馬鹿が集まる場所に敢えて行けなどと昭和の精神論を言っているわけではない。正直、われわれから見ればたいていのサラリーマンなんて、上司だろうと部下だろうと、インターンやクラウド・ワーカーのような人々だろうと、多様な反応ができる NPC にすぎないのであるから(なので、先に金井さんの本を紹介したが、僕は組織論の大半は嘘だと思っている。そんな、たいていのサラリーマンに業務に対する向上心や意欲なんてあるわけないだろう。実は、それこそが才能というものだからだ)、どういう会社にいようとたいていは周りに凡庸な人間ばかりがいて、いつも誰かが失敗するのだ。もちろん、僕らもその一人であるという自覚は必要であり、僕が「われわれから見れば」と言っているときは、エリート意識から語っているわけではない。しかし、すくなくともこういうことを理解し、自覚し、議論しているという点では、凡庸でないというくらいの自負はなくてはいけない。そういうものがなくて、誰が上場企業の新卒並の給料しかもらってないのに、企業の役職者として凡人のマネジメントなんてやっていられるものか。

ともあれ、或る研究分野とか学科というものを、それの歴史的・社会的な経緯や実情を知っていながら、それが当然であるかのように、あるいは何らかの動かしがたい必然性があるかのように他人へ説明するというのは、僕にはペテンだとしか思えないわけである。科学史という脈絡において、特定の人物が特定の学術研究コミュニティを作り上げて、特定の分野が成立し、大学で教えられたり書店に棚が出来ているという歴史を語るのはいいが、それを何かの必然性があったかのように言うのは科学史として愚かだし、知識社会学としては論外だし、そして知識そのものを議論する哲学においては欺瞞であるということになろう。

そもそも、現行の物理学と文化人類学とを学ぶ必要がある対象や課題があると、いったい何が困るのか。いま別々の分野として区別されているにすぎない、和声学と海洋生物学とに、共通の研究アプローチや話題があると感じる人がいると、それは異常なのか。ちなみに、これはたいていのいまの哲学プロパーがやっている、自分の研究に関係があるのかどうかもわからないような学会に籍を置いて論文を投稿する権利を確保するなんていうスケベ根性とは関係のない話だ。そんなもんは、既存のジャンルを認めたうえで利用しているのだから、認知的には既存のジャンルが固定していて、哲学とは区別されていないと困るのだから、僕がいまここで展開している議論とは全く異なる。僕は現今のプロパーとしてのサバイバルという話をしているのではなく、はっきり言えば地球から高等教育制度や学会、あるいは具体的に書店からあれやこれやの分野の棚がなくなり、哲学とか物性物理学とか宗教社会学といった分野がなくなろうと成立するような話をしているのだ。

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