Scribble at 2025-09-10 10:05:31 Last modified: 2025-09-10 10:28:25
昨日も MarkupDancing の落書きで掲載した話題なのだが、ウェブのコンテンツ、つまりは当サイトで掲載しているような文章が生成 AI のロボットにスクレイピングされて、「AI のおやつ」になることが腹立たしいなどと言ってるのは愚かであるという話をした。ナオミ・クラインのような左翼物書きにとっては不愉快な現状なのだろうけど、僕はそんなイデオロギーで LLM を見ているわけではないし、LLM の原理的な限界を数学なり情報科学の話として左翼の物書きよりも理解しているとは思うので、そこを超えて仕事ができない無能などデザインやプログラミングの仕事をしなくていいと思っている。ああ、もちろん僕はナショナル・クライアント案件のキャンペーン・サイトを手掛けてきた実績(『Web Designing』や『Software Design』などの、子供が読むウェブ関連の雑誌などでは取り上げられないので、こういう隠れた実績をもつ人材は広告代理店の人しか知らない)が示してるように、生成 AI を超える技術力と総合力があるから、少なくとも弊社で無用となる人材ではない。生成 AI のデザインやプログラミングは、たとえばデータの処理やフォームの要素が個人情報保護法に違反しているかどうかという別の観点でチェックなどできないし、そもそもユーザビリティやキャパシティ・プランニングという、デザインとシステム開発に密接にかかわる非機能要件での検査すらできない。結局は、これも広い意味で言えば「フレーム問題」なのだ。
さて、では生成 AI にコンテンツを食われることが腹立たしいからサイトやブログの運営は止めるなどと言う人がいたら、こう尋ねてみたい。逆に、生成 AI に何らかの質問をしたときに、自分が書いた文章を殆ど丸ごと回答に使われていたらどうだろうか。逆に、その当時の解析性能においてという但し書きはあれ、自分の作ったコンテンツが「決定稿」みたいなものだと嬉しくならないか? と。これは、話題がニッチになればなるほど、そうなる可能性がある。他に同じ話題について取り上げているコンテンツがなければ、当然だがスクレイピングしたテキストの意味論的な distance を計測するアルゴリズムは、どういう処理をしているのであれ、ウェブに一つしかないソースを利用せざるをえないであろう。もちろん、他のソースから得た推論データを組み合わせて、実質的に意味論的な distance として競合できる回答を AI が自力で生み出せる可能性はあるが、現にあるソースを軽視してまで推論だけで構築した回答を優先できるほど、現行の生成 AI は発達していない。それこそ、手持ちのデータだけでソース(一定の強度をもつ「教師」でもある)を無視できるくらいになったら、例のシンギュラリティに近づくのかもしれないが、現状ではソースを不要として自力走行できるような AI はないだろう。ここでも繰り返すが、そんなことを AI ができるようになるには、AI がそもそもフレーム問題を理解して自律的に対処できなくてはいけないからだ。当たり前だが、これは袋小路であり、その袋小路をどこで割り切るかもフレーム問題の一つなのである。
それから、自分の書いた文章がまるごと生成 AI に利用されるまでもなく、一部が利用されているだけでも、自分の成果が有効に活用されたと思えるくらいの余裕がほしいと思うんだよね。自分の画風が生成 AI に模倣されているイラストレータの中にも、カンカンに怒ってる人もいれば、逆に自分自身の仕事を効率化する道具として「ありがたい」と感じる人だっているわけだよ。だって、画風を模倣できたくらいで、じゃあ漫画のストーリーや、個々のシーンを思い通りに描けるわけでもなし、生成 AI がそれほど万能でも手軽でもないことは、多くのイラストレータが既に理解していて、道具として使うにしても限定的なことしかできないと分かって利用してるんだよね。つまり、画像生成 AI のヘビー・ユーザ(2年前に使い始めてから数百万枚のオーダーで画像を生成してきた経験がある)として言わせてもらえば、現行の生成 AI に仕事を奪われるような人間は、デザイナーやイラストレータとして無能なだけなのである。それは、生成 AI の限界を正確に理解して自ら活用するとか、あるいは自分は生成 AI とは違ってこれができると相手を説得できないという、まことに人間の才能という意味において、つまり職業人として、ごくふつうに無能なのである。とっととデザイン業界から出ていけ。
さて、次に生成 AI が示した回答を参考に、自分のコンテンツを修正したり更新するということを考えてみよう。これは、イラストレータの仕事に置き換えると、自分の画風を取り込んだイラストを眺めて、自分の画風に他の画風を取り込んでみるという話でもあろう。これは、実は生成 AI なんてものが登場するよりも遥かに昔から、ほぼ世界中の画家や書家や装飾職人らがやってきたことなのである。こういうことについて、昨今は口先だけの「多様性」を懇願する未熟なリベラルの坊やたちが、そういうことを放置していると知識やデザインの技工やシステム開発の手法が収斂してしまい、多様性がなくなってしまうなどと寝言を言っているらしい。まことに、未熟で無能な人間の予想や推測や想像というのは、ラノベ以下だ。そんなことで人類の技術や知識や技能や学術やデザインなどなどが、何らかの単一的で凡庸なものへ「簡単に」帰着するというなら、人類にこれだけの文化的な多様性などもともと発達しなかったであろう。なぜなら、意思の疎通ができないことは集団にとって明白にリスクなのであるから、相手の集団を蹂躙するか、あるいは共通の言語を作るかの選択を迫られるだろうからだ。多くの集団では争いよりも交流を選んだからこそ、人類はそれなりに存続しているし言語にも一定の系統があるわけだが、決して簡単には一つの言語へ収束しないわけである。なぜなら、修正したり改善することに利点があるとしても、変えないほうが有利であるということだってあるからだ。ウェブのコンテンツにしても、生成 AI の回答をなぞるように修正してしまうと、それこそコピペだとの誹りを受けるであろう。そもそも、一字一句まで同じにする意味などない。
更に言えば、どうしてコンテンツが、少なくとも事実について書かれた文章として一つあるいは幾つかの内容に収斂することが「悪」だと思い込んでいるのか、僕にはこういうリベラルというよりも寧ろアナーキーな感覚が理解できないところがある。それが真善美の到達点の一つであるなら、そこへあらゆる思考や思索が向かって何がいけないのだろうか。これは哲学者だけの「性癖」みたいなものなのか。