Scribble at 2025-09-05 13:30:05 Last modified: 2025-09-09 09:37:22

このまえに渕野さんの本に関連して紹介した三宅敏恒氏のテキストだが、英訳された Springer の本を眺める機会があった(どういう機会なのかは、敢えて言わない)。そして、やはり何冊かの本を読み比べるのが有益だと実感した。なぜなら、三宅氏は "vertical," "horizontal" という表現を使っていたからだ(なお、僕が所有している『線形代数学―初歩からジョルダン標準形へ』には、こういう表記は出てこない)。なので、行の単位で数学的対象をまとめて1列に並べた行列(もちろん「ベクトル」と呼んでも構わない)は、三宅氏によれば「縦並び(vertical)」という表記になる。ただし、この表記はベクトルについて採用されており、行列を擬似成分とする表記方法は、Springer の英語版でも分割として導入されているだけであり、「表現」という言い方が使われていない。

正直、こんなことは数学的な真理と関係のない、人の実感とか認知的な判断の問題なので、誤解を生じるのは(そういう意味で)悪だし、誤解を避けられるなら(そういう意味で)善であって、数学的な議論とは関係なしに採否を決めて良い。もちろん、それで誤解が生じるのでなければ、数学で博士号を取得していなくても、僕ら学ぶ側がノートをとるときに、無断で、勝手に、随意に決めて良いことなのだ。したがって、僕は誰に臆することもなく、松坂さんのテキストにある表記は誤解を招く表記だと言っている。相手が一橋の名誉教授だろうと亡くなった方であろうと関係ない。

なので、僕は松坂さんが「行ベクトル表示」と呼んでいる表記を、自分のノートではひとまず「行の単位で成分とした縦並び表示」と表記することにしたい。当然だが、これは行列を圧縮して表記しているだけのことであり、元の行列になんらかの演算を加えたわけではないのだから、転置行列のように「~行列」という呼び方を採用するのは、非常に筋が悪いと思っている。そういう線型代数のテキストがあったら、その著者は概念や用語の記述について頓着していないか厳密に考えない人物だという可能性があるから、警戒して読んだ方がいいと思う。

[追記:2025-09-09] それから、これは当サイトや MarkupDancing でも書いていることなのだが、数学の教科書によくある傾向というか陋習とすら言って良いと思うが、せっかく定義した用語をぜんぜん使わないということがあって、この「行ベクトル表示」にしても、それからそもそもこういう表記方法が必要とされる「行列の分割」というアイデアにしても、それが導入される章節から後のページで殆ど使われないという教科書が多い。もちろん、数学だけでなく他の分野でも言えることだが、必要かどうかわからないことを学んでおくことにも一定の意味や役割はある。しかし、数学の場合は既存の概念や定理を使って解ける問題を考案することなど、数学のプロパーにとっては児戯に等しいわけで、それをやらないのは少なくとも教科書を書こうという教育関係者としての怠慢だとしか思えない。僕が、特にアメリカで発行される大部の教科書や問題集に好感をもっているのは、習ったことを使って練習させるのは当然であるという教育者としてのプラグマティックな態度があるからだ(逆に、具体的な効用が分からず使えもしない定理や概念を教える必要はないということであり、アメリカの初等的な論理学の教科書で、日本だと通俗本ですら数ページを使って言及される不完全性定理が出てこないのは、そういう理由があるのだろう。もちろん、一階の初等的なレベルで記号操作する範囲であれば、不完全性定理の議論など邪魔なだけだからである)。

[追記:2025-09-09] 三宅氏のテキストを、なんだかんだして古本で揃えてしまった(『入門線型代数』、『線型代数の演習』、『線形代数学』)。これらを比較しながら読むと、それぞれ対象とする読者に応じて工夫されている箇所はあって参考になるわけだが、やはり僕は Springer の英語版が最も良いと思う。たとえば、日本語の教科書だと行列式を導入する箇所で「~とおく」としか書かれておらず、これでは "det" という記号が前のページで定義されていたのではないかと不安になる人もいるだろう。これは、Springer 版だと "we define the determinant of A by ..." と書かれているので、ここで行列式を定義していることが明確になっている。もちろん数学の本を読み慣れている人は「おく」という言葉が定義の意味にもなることはご存知なのだろうが、しかし「おく」は何かを背理法で仮定したり、あるいは論証全般で何かを前提する場合にも使うので、やはり曖昧で雑な表現であり、数学や論理学(もちろん科学哲学だろうと)の議論で使うべきではないと思う。また、Springer 版なら行列式がどうして "det" と表記されることがあるのかも一目瞭然だ。もっとも、英語版だけで学ぶ人にとっては、逆に「行列式」なんていう日本語そのものがゴミみたいなもので覚える必要はないわけだが(こういうことを書いてしまうのだから、僕が一般的な印象で言う「保守主義者」とは違うことが分かるだろう)。

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