Scribble at 2025-06-28 11:05:42 Last modified: unmodified

再びファン・フラッセンの『科学的世界像』を読み直していて、あいかわらず何度も読むたびに(たぶん5回は通読しなおしている)、この本で1章いや1節ぶんに相当するクリアな議論すら、『科学哲学』や『科学基礎論研究』でお目にかかったことはないなという暗澹たる気分になるのも事実だ。東大教授だの、アメリカで博士号を取ったのと言う割には、他人の書いたものの評論、あるいは最新の洋書やナウいフレーズを見せびらかして、それを数年前から知ってるといった「先見の明自慢」を繰り返す無能しかいないのか、という怒りや失望のようなものも感じることすらある。

なかば皮肉もこめて、PHILSCI.INFO のポッドキャストでは、敢えて19世紀の論文を題材にして音声概要を幾つか作ってリリースしている。もちろん色々な意味でプリミティヴではあろうし、"big question" の類は言葉を雑に扱う人であれば誰でも口にできる(それこそ「赤ん坊は哲学者」みたいな、誰に評価されたりモテたいのか知らないが、かような自意識だけで哲学を通俗化して遊ぶクズ議論がこの国では横行しているので、プロパーもよくご存知だろう)から、逆に古い時代の著作物を引っ張り出しては「こういう基本的なことが解決していない」などと言うのは、僕は学術研究者として卑怯だと思っている。そんなもん、哲学的な正当性や根拠がなくても、日本語を使えるだけでガキですらいくらでも言えるわ。しかし、他方で哲学的な議論としてたいへんな困難を抱えている問題があることも確かであり、それはなにも big question でなくとも山積していると理解しているのが、まともな学術研究者の雑感であろう。

科学哲学そのものをマウンティングしたいお年頃の若者、旧 Twitter でパースの研究をしているとか大学で重要な役割をしているとかアピールしながら、supervenience や科学的実在論の議論はクソだと罵っていた若造は、いまなにをしているのかは知らないが、なんだかんだ言ってもそういうことを口にしていた若者の方が(少なくとも僕の視界や情報リソースの範囲からは)消えていなくなり、彼が切り捨てた議論はいまでも議論され続けている。もちろんだが、僕は権威主義の支持者であるから、何の業績もない若造のマウンティングなんて下から殴り返してでも勝てる(実際、陸奥九十九はそれで勝利した)権威の強さを支持するわけだけど、それだけでなく自分が支持するに値する権威であるかどうかも評価し続けるのが真の権威主義であり、支持するに値しない権威は首をへし折って窓から街路へ投げ捨てるのが責務である。いまのところ constructive empiricism を窓から投げ捨てるつもりはないが(それに、いくらモヒカン族を辞めようと、僕はファン・フラッセン自身の首をへし折るつもりもない)、何度でも読んで考えるに値する著作や学説であるからには、チャンスがあるたびに読み返している。哲学することにはコミットしたままだと思うので、たぶん死ぬまでこういうことはやるのだろう。

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