Scribble at 2025-06-12 17:43:36 Last modified: 2025-06-20 14:21:55
MD では実際に売却した本の一覧を公開しているのだが、ただいま蔵書を整理している。もちろん、読んだ本もあれば読んでいない本もあるのだが、そういうことには関係なく、もう残り時間も寿命という意味では(せいぜい30年が限度だから)大してないわけなので、経済の原則から言っても「選択と集中」は、一定の成果を上げるために(そして、われわれが逃げも隠れもできない凡人であるからには)避けられないことだ。僕としては、子供の頃から関心を持ち続けてきた因果関係や自然法則について考えたり学ぶことは止めるわけにいかないけれど、正直なところ哲学や科学哲学においてすら、そのために寄与すると思える見込みが殆どないと(僕には)思える話題とかテーマの本は、別に哲学史の教科書的な素養が要求されるプロパーや物書きという立場でもなし、逆につまらぬ人間関係や職責に惑わされぬ哲学者として厳正に判断して、容赦なく切り捨てることが望ましいであろう。簡単に言えば、哲学的な業績というものは東大暗記小僧や生成 AI の情報処理からは出てこないのであって、Stanford Encyclopedia of Philosophy をトレーニングすれば次世代の哲学書が吐き出されてくるというものではない。ご承知のように、現代の最先端の LLMs であろうと、それらのトレーニングに使っているデータはオンラインのリソースであって、ウェブにアップロードされていないデータは絶対に学習不能であるからして、たとえばあなたのケツの穴の写真なんてものは絶対にトレーニングできないわけである(ていうか、そんなもん画像ファイルとして保存してるやつがいるとも思えないが)。そして、もちろんだが地球上に現存する全ての「文書」を学習できたとしても、そこから出てくるのは「おっぺけぺー」みたいな話であろう。
さて、そういうわけなので、まず物理学と数学については個人的な興味もあって残すべき本が多いけれど、社会系や人文系の本は相当な数を処分する予定だ。しかし、経済学や社会学の本をことごとく投げ捨てるというわけではなく、僕が押さえておきたいと思っている分野で素養を身につけられるレベルの教科書や概説書を2冊ずつは残しておくという方針を立てた。これは、その分野の本が全くなくなってしまうのでは、その分野の切り口やアプローチがあるという思いつきを得るチャンスが視覚的に書棚から失われてしまうからである。非常に世俗的なことを言って哲学のプロパーには申し訳ないとは思うが、何か参考になるアイデアとか別の視点を求めているときに、意外と自分の書棚に並んでいる他の分野の本の「背表紙が目に留まる」だけでも、何かの参考になることがあるのだ。こういう偶然にやみくもに期待するのは愚かなことだが、完全に排除してしまうのも馬鹿げていると思う。そして、各分野の概説が一冊だけというのは、やはりどうも何か偏っている気がして心もとない。もちろん、イデオロギーとして右と左の本といった、馬鹿の一つ覚えみたいな対比で「バランスを取る」ことなど考えていない。そんなものは、僕のような人類史スケールの保守思想にコミットしている人間にとっては、せいぜい250年くらいの歴史しかない、浅薄でどうでもよい尺度だからだ。また、これが俗物どもの言う「多様性」と関係がないことも明記しておくべきだろう。
ということで、たとえば憲法や会社法や労働法や民法の概説書は、大学で専攻していた刑法はもちろん、それぞれの分野で20冊くらいの概説書に目をとおしているのだが(悪いが、僕は法律を専攻する学生としても優秀だったので)、手元に置いておくべき本は2冊ずつにして、あとは処分することにした。たとえば、労働法なんて菅野と水町を熟読しているだけでも法学部の学部生を超える素養が身につくわけで、科学哲学の研究者が学んだり知っている素養としては、これでもオーバー・スペックであろう。その他にも、ミクロ経済学とか、租税学とか、社会保障論とか、日本美術史とか、コーポレート・ファイナンスとか、女性史とか、子供の権利条約とか、法社会学とか、中国書道史とか、金融論とか、なんだかんだ言っても分野そのものがたくさんあるから、2冊ずつ残しても数百冊は抱えることになるだろう。
それから哲学でも、思い切って無視する分野とかテーマを決めなくてはいけない。繰り返すが、僕には教科書的な哲学史をわきまえておく職責もなければマスコミ的な体裁を取り繕う事情もないので、無教養を指摘されようと何の呵責も感じないわけである。で、先日から話題にしているので薄々は感じている方もおられると思うが、このさい心の哲学とか、行為の哲学とか、認知科学と関係のないただの言語分析とか(それ、哲学じゃなくてエスノメソドロジーだろう)、あるいは倫理学全般は切り捨てようと思う。ああ、あと「元天才考古学少年」としてはどうかと思うが、歴史の哲学も切り捨てる対象だ。実際、歴史の哲学は因果関係を哲学として考えるうえで、殆ど何の関係もないし寄与してこなかったという事実があるからだ。この分野の研究者は、歴史哲学だろうと歴史学だろうと、はっきり言えば因果関係の哲学から見れば「ユーザ」であって、しかもユーザとしての彼らが因果関係の哲学に何らかの有益なフィードバックをもたらしたという事実は、僕の知る限りまったくない。よって、考古学を学んできたからこそ実体験としても言える。そして、もちろんだがこれが「いけない」と言いたいわけではない。歴史学や歴史哲学には、それに応じた役割や効用というものがあって、それは別に特定の話題にフィードバックするかどうかだけで良し悪しや是非を判断するべきものでもない。
それに、そもそもの話として、或ることがらなかんずく哲学の問いを学んだり考えるために、必要条件ならいざしらず、十分条件があるとは思えないんだよね。つまり、或ることを考えて自分なりの結論を出せば、たとえば why there is something rather than nothing の問いにも答えたことになるなんていう十分条件があると思うかね? 物理学者、それから皮肉なことに宗教者は「ある」と思うかもしれないが、いやしくも哲学にコミットしている者として、同じ地平でものを考えているなんてことはありえないだろう。寧ろ、なんで宇宙論や宇宙物理学を解決したり、あるいは何かを信仰すれば十分であると考えるのかということこそ、まずは問わなくてはいけないはずだからだ(ついでで申し訳ないが、後者つまり特定の信仰で十分条件になるという錯覚や希望は、僕は持ち合わせていないので、そんなことに1秒であろうと自分の知性を使う気はしない。僕がいわゆる宗教哲学の本を書店で手に取ることすら一度も経験がないのは、それが理由だ。母親が亡くなってから暫く仏典や解説書は読んでいたが、それもあまり意味はなかった。壮大なしかけや目眩ましで「死ぬのが怖い」という不安や強迫観念を誤魔化しているだけであって、本質的には『鬼滅の刃』最終巻で描かれる人生観と殆ど同じである)。ということなので、必要条件としては物理学や宇宙論の素養を持つことは(少なくとも科学哲学を専攻していて疑問に思う人などいないと思うが)適切だとは思うけれど、それを十分条件と思い込んでしまってはいけない。