Scribble at 2025-06-16 14:15:20 Last modified: 2025-06-17 10:10:45
以前に、足立巻一氏らが手掛けた『黒部峡谷』(保育社、1964)を読んで色々と知るところが多かった。後からでも機会があれば付近の地図を Google Maps で眺めていたりするのだが、まず最初に言っておくこととして、このような地図のアプリケーションができたおかげで、地図や地理について詳しく知ったり、あるいは広域を簡単に眺められるので、色々な場所の位置関係なども即座に知ったり調べられるようになった。これは明らかに「良いこと」であり、文化なり生活として一つの「進展」と言ってよいだろう。
こういうことを、バカみたいな理屈で否定したり相対化しては、したり顔の思想オタクや哲学オタクなんて、僕は哲学者としてはぜんぜん認めないし尊敬もできない。確かに、反知性的な人々が言うような「考えすぎは良くない」なんていう、無知無教養の屁理屈を口にするつもりはないが、かといって明白な利得を否定してみたところで、そいういう連中だって同じ程度に技術や文明の成果を享受しては嬉しがっているに違いない俗物なわけで、寧ろ正々堂々と人類なり国家なり地域なり家族なり、そして自分なりにとっての便益を評価し、他人のやったことを逃げも隠れもせずに感謝することから、なんだかんだ言っても人間関係というものは構築されるであろう。プログラム1行すら書けないような人々が IT なりネット・サービスの成果を冷笑してみたところで、彼らはアマチュアの思想家としてすら、自分自身や家族のために何の成果も上げられずに世を去るだけであろう。それこそ、自分にとっても残された人々にとっても無意味という他にない。ということなので、印刷物の地図にもいくらかの利点はあると思うが、このようなテクノロジーを軽口で馬鹿にするような「相対症」と言うべき、ものごとを常に相対化して判断を宙吊りにしたまま、良し悪しを決して明快かつ正直に評価しようとしない連中は、プロのエンジニアとしても、それからネット・ベンチャー企業の部長としてもだが、およそ許し難いものを感じる。Google なり何なりという、特定の企業や行政機関の方針なり実務について、プライバシーだとか幾つかの観点から文句を言うのは分かるとしても、このようなテクノロジー(もちろん dual-use であろう)の価値についての評価を利用状況の評価と一致させたり同一視してよいという根拠は(ナオミ・クラインのような左翼物書きにおいてはともかく)ない。
さて、上の写真地図は Google Maps のものだが(フェア・ユースとして掲載している)、ちょうど黒部市の一帯に広がる、黒部川が形成した非常に美しい扇状地を示している。地理の教科書に掲載してもいいような(というか、掲載している教科書はあると思うが)、典型的と言える扇状地の様子が分かる。で、何年前だったか、関西大学の教員が「地理の哲学」というのをやるんだと、どこかで宣言されていたことを思い出す。実際に、地理の哲学を扱っている著書として成果をまとめたと聞いているので、哲学のプロパーとして立派に仕事は一つでもやり遂げられたのであるから、それはそれで敬服に値する。ただ、このような分野は専攻する人も少なければ関心をもつ人すら少ないので(X などで「地理の哲学」に関心があると、わざわざ投稿して見せているような研究者すら少ないと思う)、なかなか研究のテーマが持ち上がっても進展しない。
もちろんだが、「扇状地の哲学的な考察」なんてことを考える人はいない。いてもいなくても、そんなことはどうでもいいのだが、しかし地理に関わるテーマ全般のどれかに関心があるという人でも、そう多くは数えられないのが実情だろう。簡単に言えば、いまをときめく(わけでもないと思うが。とっくにブームは過ぎ去ったと僕は思う)実験哲学のテーマにすらなろうというのに、日本で唱導している人々ですら、実験哲学というアプローチについて、どーのこーのとメタの議論をするばかりである。こういう、どういう思潮なりアプローチにも、愚直である必要はなくても、とにかくコミットしようとしない日本のプロパーの箱庭趣味的な研究というものには、とにかくいつも頭に来てるんだよな。有名大マスコミから本を出して売れたら文庫に収録してもらうとか、あるいは筑摩や岩波から著作集を弟子に編んでもらう以外に、あんたらはプロパーとして何がしたいんだよって思うんだな。実のところ、あんたらって本当に哲学する必要があったの? って質問したくなるような大学サラリーマンや、他にやることがないからなんだかんだと暇潰しに語って書いてます的な人々ばかりのように思う。