Scribble at 2025-04-03 09:38:27 Last modified: 2025-04-04 07:19:36
いまこうして僕らが生命活動を続けているという事実は、ともかく否定のしようがない。もちろん、これが膨大なスケールのコンピューティング環境で実行されているシミュレーションの演算結果であるという楽しい妄想はいくらでもできるが、そこから何が出てくるのか結局は科学的にも哲学的にもまともな成果というものがないのであるから、そんな役立たずのアイデアにまつわる御伽噺を読むくらいなら新作のガンダムでも観ていた方がマシというものだ。
そして、みんな知ってるように、どのみち平均すると数十年で生命活動は終わる。いつもの話として、FPV として言えば(というか死んだら FPV だろうと「~として言う」などという立場も消失するわけだが)言葉にすることなど無意味な状況へ至る。もちろんだが、これを想像すると不安な気分になったり恐怖を覚えたりする人もいて、僕はそもそもそれを隠すつもりなどないからこそ当サイトで論説を公表している。このような不安や恐怖を哲学者としての未熟や恥であると見做すかのような教えがあることは知っているけれど、それは宗教が色々な学術なり思想と未分化であった古代ギリシアなどの時代に語られていたスタンスにすぎないのであって、いまや21世紀において維持したり継承できるかどうかも考えずに死だとか死生論を語る人々は、これまで何度か書いてきたように、僕には「死に対するカマトト」だとしか思えないわけである。
そして最近は生物・医学あるいは生命倫理の分野で、僕が言う thanatophobia が錯覚であると論じているようなタイプのカマトトも増えており、こういう人々は単に自己催眠をかけているようにしか見えないので、或る意味では気の毒な人々だと言える。まさに、それまで高尚な死生観を語っていながら末期がんだと知らされて恐怖のあまり気がおかしくなった僧侶の事例と似ている。気がおかしくならないように、自分で自分自身を必死になだめたり説得しているようなものだ。
だが、それでも僕らが死んでしまうと終わってしまう「この状況」が何なのかという関心はあってよいし、それを正確に理解したいと望むことは正当な科学というものである。僕も知りたいし、知ってみれば、ひょっとすると人々が思っていたのとは違って、そう素晴らしいことでもなかったかもしれないと予言したまま死んでしまったダニエル・デネットの言葉どおりかもしれない。でも、それはそうだろう。生命活動そのものは単なる有機物の運動に過ぎないわけで、それ自体に素晴らしいもヘチマもないからだ。