Scribble at 2025-04-03 08:22:54 Last modified: 2025-04-04 07:20:40
一定の条件をつけたり、あるいは一読した印象があまりにも酷かったという理由で、本を古本屋へ手放すことは多々ある。先日も会社が移転するので、社内に置いてあった私物の本を古本屋へ引き取ってもらったばかりだ。たいていは古い技術書だとか、あるいは既に改定されて通用しなくなった法令のコンメンタールなどだから、売り払うのに何の杞憂も躊躇もない。しかし、これまでに自宅で引き取ってもらった本の中には、それ以降に興味を覚えたり学ぶ必要があると思ったテーマに関わる本として、改めて参照したくなったタイトルも僅かにあった。もちろん、そういうものでも図書館で借りて読めているから、買い直すような事例はこれまでに一度もない。
概して、本というか広く言って「テクスト」(「テキスト」と書くと教科書だと思われるから「テクスト」と書いておく。この言葉も1980年代の腐臭は漂ってくるが、最近は「言説」などという言葉も気楽に使うようなので、ここでも気にせず使っておく)と呼ばれるものは、一度や二度の通読で書かれてあることを正確に遺漏なく理解したり記憶できるものではないし、もっと言えば「内容」などという、テクストに予め埋め込まれている認知的な正解と言ってもよい何かを間違いなく exhaustive に読み手の脳へ再現するなどという、言語学的にも認知科学的にも妄想としか言いようのないモデルを仮定して読書を語ること自体が、既に非科学的と言ってもいいのだろう。かつてデリダは「テクストに外部はない」と言ったようだが、この脈絡で言えば「テクストに内部などない」とも言いうる。つまり、或る文字列の集合に対して読み手がどのような事情や理由や動機で接して、どのように個々の記号に目を通し、そうして自らのもつ諸条件との相互作用でどう反応するかがテクストのもたらす効果の全てであり、それ以上でも以下でもない。仮にそこで誤解が生じたり、何らかの原因で着目できなかったことがあったとしても、それを「著者の真意」だとか「本書のコンテンツそのもの」だと名付けたところで、当人がそうした理論的な「食べ残し」のリスクをどう見積もるかは誰にも決められない。
ただ、読書とはそういう「食べ残し」が常にありえるという意味で、何度でも目を通すだけの価値があると考えてもよいのは確かだろう。もっとも、これまでに大学などで人々を教えてきた数多くの凡庸あるいは無能な哲学教員というのは、そういう馬鹿でも思いつくリスクについてあまりにも過大評価してきたわけであって、簡単に言えば「讀書百徧而義自見」というフレーズを無闇に判断基準も実務的な工夫も考えずに、ただ学生や素人に強迫観念を植え付けるような意図で口にし続けてきたわけである。こうした無能は、ここでは何度も言っているようにたやすく自己欺瞞へ陥るので、恐らくは自らに対しても同じような強迫観念を抱えているに違いないわけである。もちろん、テクストに「色々な読み方がある」などと、小学生の読書感想文みたいなセリフを口にするのは、誰だってできる。だが、それが学術研究においてどういう実務として反映されるようなスタンスであるのかを、そうした人々は考えもしないから、いつまで経っても似たようなことしかできないし、似たようなことをしているのが哲学なのだと高をくくっているわけである。
そもそも、条件に応じて色々な読み方ができるからといって、それが何も(たぶん多くの哲学教員が妄想しているように)岩波書店から刊行されているような5,000円ほどの分厚い翻訳書であるなどとは限らないわけであって、僕らが会社で部下から提出される稟議書ですら、場合によっては幾つかの受け取り方ができる。それゆえ、それは単にパソコンが老朽化しているから買い替えるのか、それとも「新しい Mac が発売された」から欲しいだけなのかと詳しく質問して、そもそも稟議を上げた目的や理由や動機を明確にしなくては決裁できないと感じたりすることもあるのだ。あるいは一首の句でも同じことは指摘できるわけで、そうでもなければ文学の名に値しないであろう。いや文学とか学問とか、そういう前提すら不要であって、稟議書の例を出したのと同じく、みなさんの先祖が書き残した日記でも言えることだろう。
それから、まともなレベルで古典の解釈をしている方々であればお分かりのとおり、その「色々な読み方ができる」などというフレーズに、何か素晴らしい多様性みたいな妄想を押し付けることも避けるべきであろう。だいたい、多様性そのものは日教組的な「個性」とか、あるいは世界で一つだけの花を散りばめた「全てに価値がある」的なお花畑の左翼ワールドで使うべき用語ではない。もともとの多様性は、もちろんそういう価値判断など関係ないわけで、人の社会が多様であるという場合には、その中にはみなさんがお好きな左翼だけでなく、幼女を凌辱するような人間も含まれるし、年金生活者にインチキなリフォーム工事を持ちかける「スーパー・サラリーマン」みたいなやつも含まれるし、東大でこれからは学生の大半を占めるであろう人々へのサービスとして、中国語で哲学を教えようかなんて人間も含まれるわけだ。