Scribble at 2025-03-14 08:27:39 Last modified: 2025-03-17 10:26:52

MD でもここでも何度か述べているように、僕は宗教というのは死への恐怖を紛らわす巧妙で壮大な仕掛けあるいは文化や知恵みたいなものだと思っている。したがって、先日もご紹介したように、それから当サイトで公開している論説でも書いているように、「死への恐怖は錯覚である」とか「死は恐れるに値しない」といった話をしたがる自然科学者や医療従事者の議論は、端的に言えば死についてのカマトト議論でしかないと思っている。死について高尚なことを語っていた坊主が、いざ癌が見つかって余命が限られているとわかったら人が変わってしまい、死の恐怖のあまり精神疾患となってしまったという事例が紹介されることがある。現実にはそういうことも多々あろう。要するに、その手のカマトト議論は、自分には(とうぶん)関係ないと思い込んでいる気楽な連中の強がりにすぎないということだ。

でも、そうではなく不安や恐怖を感じずに死ぬ人も多い。なぜなら、人は急に死んでしまうことだってあるからだ。当サイトの論説でも書いたように、エピキュリアンの強力な議論、つまり死んでしまえば怖いもくそもない。この議論は FPV としては全く正しいし事実であろうし、論理的にも否定のしようがない。というか、そもそも FPV の観点に立てば、死んだら論理もへったくれもありはしない。これは、もちろん立論としては誠に強力なのだが、しかし実は哲学的に言って何の価値もない議論である。これを死ぬ前に理解したり同意したからといって、結局はそこから何か哲学として有益な議論が出てくるわけではないからだ。死んだらそれで終わり。だから? でも、いわゆる真理というのは、えてしてこういうものではないかという気がするんだよね。だって、真理というのは(少なくとも定義から言えば)ヒトがどうやっても変えようがないことがらであり、認識できるのかどうかも含めてヒトの手に余ることなんだから。なので、仮に知り得たとしても「だから?」と言う他にないようなことなんじゃないかって思う。それゆえ、真理なんてくだらないと無視してかかる人も多いし、ましてや真理論なんて暇潰しでしかないと考える人もいる。それは、ヒトという生物の限界から言って、理解できないことではない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook