Scribble at 2025-03-14 08:09:25 Last modified: unmodified
いま作っている教科書のベースになっている文章は、もちろん生成 AI を利用している。そろそろ個別にやるだけではなく、学術研究という実務のスキームなりワークフローを考えてもいいような気はしているのだが、ここでは小さな話題についてご紹介しておく。
ありていに言えば、僕自身が十分に習得していない言語、要するにドイツ語やフランス語やイタリア語や中国語やハングルで書かれた本もソースとして採用する可能性を排除していないということだ。したがって、僕の教科書では文献表を "References" ではなく "References and Sources" と表記することになるだろう。自分が習得している言語で書かれた本だけを読解し利用することが学問の「まともな」実務であるかのように思っている人が大半だろう。しかし、メタ・レベルの議論として十分に蓄積があるとは思えないし、正直なところ、僕に言わせれば勝手にハードルを上げているのは、外国語の本を読むことしかやることがない東大暗記小僧の思い込みであろうと思う。つまり、そういう妄想の延長にあるのは、「有名な過去の哲学者とサシで向かい合って議論する」なんていう情景が哲学の研究の理想だと思い込んでいるのではないか。ラノベの読みすぎだろう、あんたら。
そもそも、なんで相手の言語に合わせてわれわれが母国語以外を習得しなくてはいけないのか。理想というなら、コミュニケーションの理想は自動翻訳であり、更に言えば脳で起きる「意味」と称する反応の同期ではないのか。これはこれでテレパシーのような議論へ落ち込むおそれがあるから雑に展開するつもりはないが、簡単に言えば「プラトンやカントやデカルトに日本語での意思表示を求めて何が悪いのか」という気分がしている。我々に何か言いたいことがあるなら、日本語くらい勉強してくれと逆にいいたいわけだ。どちらが「不当」であるかは、ぼくは哲学的に言って自明ではないと思うがね。自明だというのは、それこそ外国語のお勉強が哲学だと思ってる(無能な)プロパーの思い込みであろう。
そして、これもあけすけに言わせてもらえば、たとえ僕が AI の結果について是非を判断できない言語で書かれた文章の翻訳や解析が間違いだったとしても、結果として参考になる文字列が手に入ればいいのであって、どのみちそこから何を引き出して議論するかということだけが重要なのだと割り切れば、僕らはいくらでも利用できる。確かに、これには幾つかの問題があろう。一つは、AI の結果に委ねることとなるので、なかば学術研究が博打みたいなものになりかねない。「よさげなテキスト」が吐き出されるかどうかを、自分では読めないテキストの PDF を AI に読み込ませて楽しみにするようなことなのだから、スマホのゲームでガチャを回しているのと変わらないと言いうる。
そして、このようなスタンスは、結局のところ一度は僕自身の方針から破棄した「モヒカン族」のスタンスに回帰することではないのかという問題もある。モヒカン族というのは、発言された表現の内容だけで価値を判断し、それを発言した人物の人間性については問わないという態度のことだ。よって、ハイデガーの評価からナチスとの関わりを除外するとか、和辻哲郎の評価から中国人差別を除外するとか、要するに哲学として「有益」であれば誰の著作であろうと構わないということになる。このようなスタンスは、或る人にとっては一種のシニシズムとなっているし、他の或る人(たとえばサイコパスの人ならそうだろう)にとっては真顔で不問に付されているようなことだ。これについては、僕はやはり人物についての評価を除外して考えることはできないので、有益なテキストを AI が吐き出すとしても、そのソースがなんであるかという注釈は常に必要だと思う。これは単純なキャンセル・カルチャーではなく、やはり有用な結果はそれとして利用するし参考にもする。しかし、それがどこからもたらされたのかという経緯や素性は記録する必要があるわけで、生成 AI の翻訳では reference という形式を取れないと思うが(誤訳なら reference として典拠表記することはソースを不当に扱うことになる)、少なくとも source として列挙する必要はある。