Scribble at 2025-01-17 20:40:25 Last modified: 2025-01-23 08:53:01
因果関係は、ヒトの未熟で有限な認知能力に最適化された枠組みであり、原因と結果の関係という短絡化が本質だと思う。僕が、マリオ・ブンゲの分類で言う認識論的なカテゴリーとして因果関係を理解するという反実在論のアプローチを支持していることは何度もご紹介した話だ。
因果関係を定義したり定式化するにあたり、単一の原因や決定的な要素へ物事の由来を短絡化するために「原因」という概念の特徴をあれこれと規定すること自体が自己目的化した論点先取なのである。そして、確率的な因果関係について背景となる着想を幾つか検討してみた限りでも、たとえ統計や確率を応用したスキームに置き換えようと、結局はその一点において同じ自己目的化した定式化に至るとしか思えないというのが、僕の修士論文の隠れた結論でもあった。
つまり、僕は因果関係の哲学を専門にしているわけだが、実は因果関係を哲学的に重要な概念として評価してはいない。簡単に言えば、認知言語学者かエスノ系の社会学者が研究すればいいようなことだと思っている。なので、「僕が科学哲学を専攻しているのは、デタラメで胡散臭い科学哲学者を見分けるためだ」などと言っているのと同じ調子で、僕が因果関係の哲学を専門にしているのは、哲学に因果関係というファンタジーを忍び込ませようとする連中を警戒するためだとすら言える。マイクル・トゥーリーの著作でもわかるように、因果関係の議論をしていくと確率を使おうと結局は様相や universals や disposition でしか説明できないようなところへ行き着いてしまうと思う。だって、そんなもん人の頭の中か、せいぜい World III にしかないんだから。ちなみに、ここで現在も保留としているのは、Quinean としては「ある」と言っているけれど、みなさんのような標準的な科学哲学の勉強をした方々には奇妙に思えるとおり、僕はハイデガーのファンでもあるから、こういうことをアメリカ流のプラグマティズムで「ある」と言うのにはかなり抵抗があるということだ。
更についでで書いておくと、僕は中国人に比べたらアメリカ人の「プラグマティズム」は底が浅いものだと評価しているので、いわゆる「アメリカ思想」を語るのにプラグマティズムを持ち出すのは、それ自体が表面的で社会科学的な素養のなさを物語っていると思う。なので、アメリカの思想家や哲学者が自己イメージとして持ち出すプラグマティズムなるものは、かなり疑わしいというのが僕の意見だ。結局、ローティとかの書いてることは面白いけど(皮肉なことだが)哲学として役に立たないなと思うのは、そういうところに理由がある。いわゆる "linguistic turn" っていうのも、僕は自己イメージとしては分析ミスであり嘘だと思ってるし。まったく真面目な話、それってデリダとかに言うことじゃないの? 正直、分析哲学者なんて言語学の勉強をぜんぜんしてないし、そもそも言語について殆どなんにも議論してこなかったじゃん。
とかなんとか、色々と脱線したが、しかし因果関係の explanatory power は(認識論的なカテゴリーとしての説得力こそが人を動かすのであるからして)軽々しく扱うべきことでもない。ゆえに、因果関係はものごとを複雑に理解できぬパカ専用だと見做したところで、得るものはなかろう。その「バカ」の中に、いま世界中で AI を駆使しており、ひょっとするとあなたが数年後に罹患する恐れもある癌の最適な薬を見つける人々も含まれているかもしれないからだ。