Scribble at 2025-01-04 16:28:35 Last modified: 2025-01-04 16:38:27
Feedly で subscribe している RSS のヘッドラインを見ていると、論理学の入門書を買ったとか出版したという事例が幾つか見える。あいかわらず、よく分からない。
何がと言うと、そもそもこの国では真面目にロジックを教える気もないくせに、毎年のように新しい記号論理や数理論理学の教科書や通俗本が続々と出版されるという事実について分からないところがあるということだ。いや、実は分かっていると思うのだが、分かりたくもないという心境もある。凡庸なプロパーに凡庸な出版人、そして凡庸な読者という、予定調和的な状況が文化や教育や知識や出版において下方圧力を形成していることに気づかない気楽な人々の人生というものは何であろうかと思わずにはいられないのだが、僕だって既にこういう国で半世紀以上を過ごしていて、そんな達観したように偉そうなことを言える立場でもない。既に僕もそういう状況を維持したり、或る意味では後押ししたり、あるいは僕自身が是が非でも教壇に立ってまともな論理学や科学哲学を教えようとしなかったという消極的な意味での責任があろうからだ。自意識も甚だしいが、有能な人間とはほんらい傲慢なものだ。
たとえば、この国で論理学を堅実かつ有効に教育しようと思えば、たとえば渕野さんがデーデキントの翻訳に付録として掲載したような内容が基準になると思う。あのレベルに付いてこれない人は、正直なところ分析哲学の学生であろうと論理学を学ぶ必要はないと言いたい。でも、それは別に分析哲学や科学哲学を専攻できるかどうかとは関係がない。だって、そもそも分析哲学なんて実際はロジックなんか知らなくても学べるし、研究すらできるわけだし。実際、第2不完全性定理の証明を自力で解説できる人がどれだけいるのか。でも、そんなことできなくても大丈夫なのだ。シェラハの classification theory をぜんぜん知らなくても分析哲学の成果は積み上げられる。実際、このところ色々なところで若手が取り組んでいる、やれジャズ音楽の分析哲学だのラノベの分析哲学だのアダルト・ビデオの分析哲学だのといった通俗解説(応用の「研究成果」ですらないと思う)にしても、そんなことやるのに functor とか saturation とかしらんでもいいだろう。