Scribble at 2025-01-01 11:41:27 Last modified: 2025-01-03 17:05:58
こっちは哲学のサイトだし、謹賀新年とかそういうどうでもいいことは割愛する。
いきなり本題に入ると、これは昨年の暮に寝床でつらつらと考えていたことだ。僕は小学生の頃に考古学を勉強していた当時からでも、「歴史」と呼ばれている過去の状況だったり一連の出来事について、それを知ることで何を学べるのかという漠然とした疑問を感じていた。過去の生活なり心象風景のようなものを想像することは有意義に思えたけれど、だからといって「当時はこのようであった」ということが分かるというだけでは、老人の懐古趣味と何にも変わらない。要は「文学」の一種であって、趣味としては優雅だがそれ以外のものではありえないだろう。僕は何も歴史や考古学を学んで他人に何かを説こうなどと説教臭い動機をもっていたわけではなく、自分自身にとって何を学べるかが重要であったから、ここが欠落したままでは「歴史ファン」を自称する素人と結局は同じ視線しかないという無様なことになる。そんなことに付き合っていられるか、という生意気な実感もあった。そんなわけで、いつしかテーマは更に抽象的なことがらとなって因果関係や必然性について考えることとなったわけだが、概して philosophy of causation と言うべき分野に手を着けると、以前も書いたことはあるが、この国では全く研究が進んでいないことが分かる。
僕がまず学部時代に取り組み始めて頭にきたのは(哲学を学んでいて「頭にくる」というのは妙な実感ではあるが)、とにかく色々な分野の研究成果を学ぼうとすると、「これは『法的な』因果であって云々」とか、「『物理的な』因果というものは云々」とか、とにかく議論や考察の対象を既存の分類で仕分けして、全くお互いに無関係であるかのように扱おうとする人があまりにも多いということだった。そして、それがどうしてなのかと考えてみるに、哲学的な考察にもとづく成果というよりも、寧ろ実務的な事情という理由によって大半の人々が因果関係についての実在論を不問であるかのように信じているからではないかと思えた。つまり、どういう分野で論じていようと、しょせんは「同じ因果」を論じていることになるというわけだ。これは僕には許し難い思い込みである。
ということで、学部は法学部で刑事法学の構成要件論を専攻していたという事情もあって、刑事法学で研究されている因果関係の議論を色々と調べていたのだけれど、ゼミの指導教官は「刑事法学からプチブル的な哲学の議論を追放する」ことを目標としている筋金入りの左翼であったため、常に疑念の眼差しを受けながらレポートを書いていた専門課程の2年間であった。ただ、指導教官の「哲学は役に立たない」という印象は分からなくもない。当時の、いやいまでもたいがい同じことが言えると思うが、刑事法学で議論されていた因果関係の議論は非常にレベルの低いものであって、確かにハーヴァート・ハートとトニー・オノレの Causation in the Law は九州大学出版局から1991に翻訳されていたけれど、そういう成果もほとんどまともに活用されておらず、法哲学のような分野ですら sine qua non か一般因果かという原始時代の議論を繰り返している始末であった。これでは、たとえば科学哲学のプロパーが philosophy of social science というコンテクストで法学から学ぼうにも限界がある。要するに法哲学だろうと科学哲学だろうと圧倒的に無能や凡人が多い国では、凡庸で安っぽい研究スタイルや俗信に学者ですら流されていくという典型的な実例の一つだろう。