Scribble at 2024-12-23 09:25:45 Last modified: 2024-12-25 06:55:10

寝ている途中に思いついて夜中の3時頃に書き留めたアイデアなのだが、意識(というか実質は自意識にほかならない)に関する議論で、もしかすると僕自身が調べきれていない既存の成果があるかもしれないから暫定ではあるが、ここでも書き留めておこう。

まず、僕が multiple realizability というテーマに関わる議論の多くが単純な論点先取であって話にならないと論評していることはご承知かと思う。ここでは詳しく繰り返さないが、意識を別の何かにおいて「再現」するということは、そもそも双方の質料において意識があるとかないと言いうる比較の条件が決まっていなくてはならないが、そんな条件を科学的どころか概念としても正確かつ妥当に定式化している論説を見たことがない。どういうわけか意識をもつと仮定されたヒトと、たとえばロボットだとか他の何かとをまず持ち出してから、双方を比較するなどという安物の SF を語っている事例が大半を占めており、通俗本でペダンティックに multiple realizablitiy を取り上げる場合は、たいていこういう愚劣で稚拙な議論の奇妙さが哲学の独自性だの「常識批判」であるかのようなふりをしている。だが、そんなものは全て誤魔化しだしデタラメである。比較するべき双方において意識なるものがあるとかないと言いうる条件が示されない限り、相手がロボットだろうとゾンビだろうと全ては論点先取、要するに思い込みでしかない。

そもそも、multiple な realizability を議論したり勝手に想像する暇があったら、その前に必ずやっておかなくてはいけないこととして、まず "single realizability" という概念を僕ら自身について検討してみるべきではないのか。もちろん、このときに "single" と言いうるような意識があるとかないとかを論じるための条件が立てられていなくてはならない。たとえば、僕ら自身の意識がどういう意味で連続していると思えるのか、そういう連続性をして realizable だと言えるのか(この場合は "single" も "multiple" も必要ない。そういう一貫性や連続性なくして、そもそも "realizability" など語れないからだ)ということが議論されていなくてはならないだろう。(なんでこれが寝ているときに思いついた議論なのかは、これでおわかりだろうと思う。就寝したり麻酔がかかっているあいだ、僕らは「意識を失う」とされる。そうして次に覚醒したときも、僕らは自分自身であり続けていると思うのだが、それはそもそもどうしてなのか。つまり、伝統的な自己同一性、もっと言えば「同一」や「等しい」とは何かという議論を意識という話題に即して展開できていなければ、僕は multiple realizability を論点先取なしに論じたり theme-setting できないと思う。)

更に、夢や麻酔で主観的に分断されたような状況に限らず、そもそも我々の意識がいまこうしてキーボードをタイプしているあいだも「維持され、継続している」と思えるのはなぜだろうか。こういう議論をするときに、いわゆる分析哲学者はすぐに馬鹿げた喩え話に逃げようとするので、少なくとも意識について議論しようという科学哲学の学生には認知神経科学の勉強くらいは課したほうがいいと思うのだが、ここではさしあたって、何らかの情報なり情報をストアする機能が維持されているということが「意識」なるものの実態であり、その継続性の根拠なのだろうかと問うてみる。そうすると、脳神経細胞は新陳代謝してるので(これを情報や機能として「再生しない」話と混同している人も多いわけだが)、たとえ細胞として新しく新陳代謝によって入れ替わっていても情報なり機能が新しい細胞に伝達されているということで件の維持や継続ができているのだろうか。

これは何も意識のような話題だけでなく、他の身体の部位に関する自覚としても議論できるだろう。たとえば、僕らの爪は伸びると切ってしまうわけで、爪も皮膚の一部として新陳代謝しているのは常識の部類に入る。しかし、爪が新陳代謝していることを知っていて、数ヶ月もすればすっかり全ての爪が伸びて切られて新しい質料の爪に入れ替わってしまっていることも想像はできるはずだが、だからといって「新しい爪をもっている」などとはあまり考えない。もちろん、病気や怪我や事故で爪が割れたり剥がれてしまったなら、新しく伸びてきた爪を「新しい爪」だと考えることはあろうが、毎日のように切ったりヤスリで削っている爪が「新調されている」とは考えないだろう。では、意識だけが何か特別なのかというと、そういう肉体の感覚を受け取って処理する機能だけが働いていて、実はその感覚の対象が脳にないだけなのではないかとも思える。つまり、自覚するという最終のプロセスで処理される情報としては同じような経路をたどるが、爪や肉体の自覚とは違って、意識の場合はその対象が脳の中にはない、つまりバーチャルな感覚ではないかと思える。

こういう仮説を立てると、たとえば意志の議論でよくある「ホムンクルス説」という無限後退の誤りや錯覚を簡単に除去できる。こういう、マジンガー Z に搭乗している兜甲児みたいなのが脳の中にいるといった漫画的な議論をさも哲学の考察であるかのようにマーケティングしてきたバカどもの通俗本は、さっさと一掃するようなレベルの教科書を高校の倫理においても期待したいものだが、バカどもはつねに「手始めにこういうことから考えてみましょう」などと、あたかも当て馬あるいは乗り越えるための最初の未成熟な考え方の一つとして扱うことに価値があるかのような、出版業界の錯覚に陥っている。

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