Scribble at 2024-12-26 19:01:07 Last modified: 2024-12-26 19:08:53
テキストの序文なり冒頭箇所で、やれ慣れ親しんだ実例から話を始めようだの、哲学と言えば自分と関わりないものと思っている人もいるようだが、そんなことはなくて云々とか、いやテキストに限らず通俗本の類にも似たような書き出し方をするものが多くある。
しかし、それぞれの読者には、本を読む以前の問題として、哲学について何か知りたいとか関わろうとする事情や理由や動機などが色々とあって、どれほど日常生活の話題を展開してみたところで限度がある。寧ろ、それぞれの読者が関わったり抱いている事情とか理由とか目的などと直接の関わりがないところで解説したり議論を展開して見せるからこそ、各人の事情や状況とは独立した観点や価値観を示せるわけで、そういうことにも一定の価値があると思う。つまり、抽象的で、無味乾燥で、世間離れした観点や議論を、自分が抱えている事情とは関係なく突き出されるような状況に置くことも、哲学に限らず色々な学問を学ぶ効用の一つではないか。したがって、恋愛だの、死だの、就職だのという通俗的な話題を最初に語れば、introductory な文章となるかのような三流の編集者が思いつきそうな錯覚に陥り、つまるところ「旧帝大の博士号も持っていないバカども」にも哲学を講ずるという、心優しき人格者となりえるのではあるまいかという思い込みを、都内の物書きやプロパーの諸君がアウトリーチだの啓蒙だのと称してやっているのは、はっきり言えば哲学者としての重大な自己欺瞞だと言いたい。そういう尊大な親切は、たいていの素人や初学者にとっては大きなお世話なのだ。
仮に、初学者が置かれている状況だの事情というものが状態記述のように書き出せるとしてみても、そういう事情を特徴づける、恐らくは大変な数の「事情属性」と言うべきものが、離散的な値のパラメータとして或る種の集合に展開している保証などあるまい。いや仮に値が離散的だとしてみたところで、そういうパラメータの数が多すぎて、各人の状況や事情を正確に特定しようとしても、それを記述するためにテンソルを使うとして、いま現在の AI が膨大なデータでトレーニングされている様子などを見るだけでも組合せ論的な爆発に至ってしまい、個々の状況などに対応する教科書を書くなんてことが実質的に不可能であると分かるはずだ。ましてやパラメータが連続的な値をとるような記述を要求するのであれば、もうそんな個々の状況なるものへ正確に「対応」するようなテキストを書くのは、連続的な「意味合い」として読み手に理解されるような表現を使ってでしか不可能だし、そういう表現が可能だとしても、読み手が書き手の想定する対応関係と正確に合致している理解の仕方をするとは限らないわけである。あるいは、書き手の使う連続関数状の表現にあって任意の値をとれば、読み手の使う連続関数状の意味にあって任意の値が対応しても構わないような読み方でよいとする場合も考えられるが、常にそんな都合の良い対応関係だけで教科書を書いたり読んだりする幸運な set-up が成立するわけでもないだろう。というか、そんな set-up が成立した試しなど古今東西あるまい。
更に、もしそういう教科書を大量にパラメータを変えて出版したとしても、結局は同じことが言える。したがって、色々な人が色々な教科書で初心者に合わせた「やさしぃぃぃ」(語尾上げ)導入部を書けば、どれか一つでも哲学の初心者に最適な introduction になりえるのではないか、などと想像するのは好き好きだが、公の出版物で闇雲に試すようなことではなかろう。