Scribble at 2024-12-20 20:16:48 Last modified: unmodified

就寝時の無呼吸症候群や何かの発作や脳梗塞やくも膜下出血などで亡くなる方もいるという。その場合に、寝ていたままだとすると、もちろん当人が何か最後に何かを感じたり意識を覚えたのかどうかは、もはや科学や医学でもトレースする手段がないため、誰にも分からないわけである。

だが、そういうことがなくて前日に寝床へ入ってから翌日の朝まで何かを感じたり、あるいは自分がその間も呼吸していることすら自覚がないという人はたくさんいる。

僕は、寝ようとする際に夢というか想像の続きとして何かを「続き物」として論じていたりすることがある。その際に睡眠が浅いと、想像上の議論や考察を記録しておかなくてはいけないという意欲の方が勝ってしまって、起きて寝床に置いてあるメモ帳やらスマートフォンの Google Keep にメモを記録することもある。そういう場合は、寝ていても「寝ていながら想像上の議論をしている」という自覚があるという、奇妙な状況に置かれていることとなる。

でも、その反対に寝床へ潜り込んだ数分後には意識がなくなって、次に意識が戻ったのはスマートフォンのアラームが鳴動する数分前だったということもある。あれ、どういうわけかアラームが鳴るよりも前に起きたりすることがあるのって不思議だよね。ともあれ、色々とあるが、寝ているあいだは自分自身が呼吸しているとか寝ているとか、いやそれ以前に意識がないということが多いわけだ。そうすると、それがもしずっと続いたら? そこから段階を経て死んでいったとしても、意識がないのだから気づくもヘチマもないわけで、したがって怖いだの悲しいだのという感情も起きないだろう。ということは、結果は起床することと死とで全く違うけれど、途中までは全く同じ経過をたどるのだとすれば、病院でこれから寝ようとすることと、同じく病院でこれから死んでゆくこととの違いはなんだろうか。

一つは、もちろん原因において自ら望んで寝ようとすることと、たいていは自ら望んでもいないのに死んでしまうこととの違いであろう。寝ているあいだに何事かを感じたり自覚する暇もなく死んでしまえば、それは原因において当人がどう思ったり感じるかの違いでしかなくなる。すると、結局のところ死が恐ろしく感じられるのは、あたりまえだがそう感じる人はまだ死んでいないからだという身も蓋もない結論しか残されていないのではあるまいか。

思うに、古今東西の芸術作品には、ヒトには自意識があって、それは素晴らしいという前提があるようなのだけれど、果たして本当にそうなんだろうかと考えてみてもよいだろう。もちろん、だからといって反出生主義が不可避の結論となるわけでもないし、逆にセンチメンタルな生命礼賛に行き着くのが当然だとも言えない。ただ僕自身は、かつてダニエル・デネットが『解明される意識』で書いたように、実は意識なんて芸術家が想像したり、世の多くの哲学者がせっせと理解したいと願ったり、あるいはカーツワイルを初めとする「死にたくない系のシンギュラリティ待望論者」が熱狂的に保存したがるほど素晴らしいものではないかもしれないと思っている。確かに、こういう奇妙な現象が身体で起きる動物であることに何か興味深い特性があって、そのおかげで僕らはパイナップルを入れたパンナコッタを食べたり、あるいはトイレで巨大なウンコをしながらプラトンの『国家』を読むなんていう奇妙な生命活動ができるという、その奇妙さを感じるていどには共感できる。でも、それはそんなに礼賛するようなことだろうか。どのみち遠くない未来に死滅する生物種だし、その痕跡や文明が他の「知的」生命体に伝達される見込みもないし、いや伝達されようとされまいと数百億年もすれば宇宙全体が活動を終えるわけで、何をやろうと最後は正真正銘の終わりに至るだけである。

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