Scribble at 2024-12-01 18:25:04 Last modified: unmodified
僕の構想として紹介しているテキストのアプローチは、もちろん表面的には「ポストコロニアルな」科学哲学を標榜しているように見えると思う。もちろん一部はそうだし、それを隠すつもりもないが、しかしこうしたアプローチの吸収なり応用には一定の留意が必要である。なぜなら、迂闊にこうしたアプローチの表面的なスローガンやスタンスだけを安物の思想的なヒーロー気取りですくい上げてしまうと、それこそ「先進国のわれわれが黒人や中東の思想にも配慮して科学哲学を語ってやることにしよう」とか、あるいはきみらと同じように、偏差値80もない馬鹿を相手に科学哲学を解説してやろうなんていうふざけた教科書を続々と書く羽目になるからだ。もちろん、そんな性根で書かれたは本は決して philosophize するべき人々には届かないので、常に届かないか、届いても無意味な連中にしか読まれないわけで、出版社にとっては都合のいいことに、永遠に新しい教科書をこれでもかあれでもかと工夫して出版できるわけである。
もちろんだが、決定的な教科書なんていうものは妄想であろう。しかし、だからといってアメリカで数十版を数えるほど改良を重ねながら発行されているような教科書を、科学哲学で、しかも日本語で作れない理由は何なのかを、プロパーなら議論してもいいだろうと思う。