Scribble at 2024-11-28 07:17:22 Last modified: unmodified

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The Philosopher as Reverse-Engineer

少し前にも紹介した話題だが、実際に議論されている中身を知ると、「概念工学」というアプローチなり着想は、かなり怪しいものがあるとしか思えないんだよね。

たとえば、この論文では「X とは何ぞ」というソクラテス的な問いではなく、「X を問うて何がうれしいのか」という pragmatic な問いによって、或る概念が必要とされる哲学的な事情というか機構を解明しようというわけだ。でも、そういう提案には僕のような哲学者から見て即座に二つの疑問がある。

まず第一に、或る概念の定義や定式化だけではなく、その脈絡や意義について問うなんてことは、或る概念を学ぶときに学部生でもやってることだという疑問。逆に言えば、この人たちはたとえば supervenience だの states of affairs だの special relativity だのと学ぶときに、その定義しか考えないのだろうかってことだ。大学でものを教えているプロパーのくせに、そんなことあるまい。

そして第二に、著者が言うように概念の理解なり用いられ方を検討することによって色々なことが分かるし反省の材料にもなる。そして、そういうことはこれまでに、ピースミール分析哲学では飽き足らないという人々が色々とやってきたことだし、哲学史というもっと大きな脈絡で言えば、もちろんニーチェやデリダやハイデガーといった人々が大きな事績を残してきた。正直、「分析 vs. 大陸」なんていう架空の対比を作ることでしかアイデンティティを保てなかった分析哲学の方が先に「思潮」として崩壊したのは当然であって、こういうことはハッキングがフーコーを読んだりしていたよりも遥かに前から多くの人達によって(主に「分析哲学」という自画像を揶揄する仕方で)語られてきたことであった。いまさら何を言ってるのかという気がしないでもない。

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