Scribble at 2024-11-28 12:26:25 Last modified: 2024-11-29 18:30:05
たとえば、ウィリアム・モリスの名を使った本って、もう書店にうず高く積み上げるほど出版されてるわけだけど、彼の思想なりアイデアなりスタンスなりを引き取って何かやってるなと思わせる人なんて、少なくとも著作物を眺めている限りでは殆どこの国に存在しないんだよね。つまり、この国は大昔から(それこそ僕が専攻していた古墳時代から)仏教書なり思想書なり漢詩なりといった大量の外国書を続々と翻訳しては消費してきたし、いまでは欧米どころかアフリカや中東の書物でも盛んに翻訳してるわけだけど、しょせんは X のタイムラインに流れていくログも同然の刹那的消費に身を任せているに過ぎないという気がしている。もちろん、クワインのエピゴーネンを募集しているとか、ウィトゲンシュタインのコスプレ野郎が哲学の業界にでてくることを期待しているわけではないよ。かつて、元モデルの、都内のマスメディア関連の伝手だけでものを書かせてもらっていたような人物がソクラテスの猿真似をしていたわけだけど、あんなもんただのパフォーマンスに決まってるじゃん。ただし、パフォーマンスだからいけないというわけでもない。あれはあれで高度な「芸人」だったと思えば、それなりに称賛に値するからだ。もちろん、いま書いているこの文章も、別に当てつけや皮肉ではないよ。
そういや、いまだに「ちんどんやさん」っているけど、別にあんなもんを見たからといって買い物へ行く人なんて殆どいないじゃん。でも、あれはあれで事業なり産業としてほそぼそと続いているわけだ。したがって、小川なにがし、飲茶、岸くんに先を越されてまだ京大教授になれないお勉強くん、あるいは長野に倉庫代わりの別荘を建てたらしい人物、元ゲーム作家、元 SE 、それからアフリカ哲学の些末な入門書を書いた人物(というか入門書しか書いてるのを見たことがないが)、こうした人々がおよそ毒にも薬にもならない文化芸人だと割り切れば、僕は哲学者であると同時に企業の部長でもあるからして、さほど憤慨する気にならなくても済むというわけだ。まぁ、一種のアンガー・マネジメントだな。ゴミを踏んだくらいで哲学者がいちいち腹を立てていては時間と認知機能の浪費というものである。
話をモリスに戻すが、ただし僕はモリスのような人物の活動について何か賛意を表明したり示唆したいわけではない。そもそも「趣味的な」工芸として人々の生活に取り入れられることを狙ったとは言っても、はっきり言って当時のマンチェスターで働く工場労働者に彼の「作品」を買うお金があったとは到底思えないからだ。要するに、彼らのやることが実現するとしても、それは彼らの活動によって世の中が変わるというよりも、世の中が変わることによって彼らの作品が多くの人々に行き渡るかもしれないという、せいぜい確度の低い遅延指標として見るしかないのだ。自分たちのやっていることが結果であるにすぎないのに、まるで原因となるかのように取り違える妄想は、どこの国でもスノッブに多い誤りではある。
もちろん、これは昨日の落書きで書いた本の話と同じことだ。そして、確かに公共の利益に資するような成果であれば、一部の金持ちしか読めないような(ユングやイリイチなどの本に多い、豪華本とすら言えるふざけた)出版物ではなく、それこそブログにでも書くか、オープン・アクセスの出版サービスを利用すればいい、そしてそのための資金をファイナンスする能力も、現代の学術研究者においてはコア・コンピタンスの一部ではないのかとすら思える。実際、きみらはヌスバウムやサンデルのような人物を「辣腕」というか小文字の学内政治とかでのし上がった「女優あがり」や「文化芸人」だとか思ってるかも知れないが、彼ら(何度も言うが「彼女」は明治時代の流行語にすぎない。「彼ら」と書いて女性を含んでもよい)のファイナンスやマネジメントの能力は、哲学研究者としての才能を脇へ置いたとしても、高い評価に値すると思う。「哲学アイドル」とかプロモートされてる、そもそも論文の1本すら書いてない小便臭いねーちゃんとは比較すること自体が失礼だろう。