Scribble at 2024-11-27 21:37:38 Last modified: unmodified
今日は出社して、ジュンク堂へ足を運んだ。MD でも書いたように文化人類学の棚を物色していたのだが、やはりどの分野でも言えることとして、面白そうな、そしてもちろん学術的な成果として多大な労力がかかっていると思われる著作は、どうしても高額だ。そして、クズみたいな通俗本は2,000円以下とかで販売されているので、馬鹿はもともと物事を「お茶の間感覚」や「大阪維新的な民間の知恵」でしか判断しないから当然だが、そうでない若者などでも価値のよく分からない本に何千円も出すわけがない。しかるに、どうしても通俗的で手軽に書かれた本が売れるわけである。これは、もちろんミクロ経済としては仕方のない話であって、このような事実に腹を立ててもしょうがない。凡人とは凡庸な行動や思考をとるがゆえに凡人なのであって、地面を歩いているアリに向かって「どうして地面を歩いているのか」と腹を立てても無意味である。
しかし本というものは、もちろんだが若者が読まないと社会全体にとっての効用が少ない、つまりは意味がない文化的な制作物だ。なぜなら、本に書かれたことを活用して次の成果を出すべきなのに、本を読むチャンスが遅れるほど成果が出るのも遅れるからだ(こういうタイミングがあまり関係ないのは、一握りの英雄的な才能をもつ人々だけであり、たいていの凡庸な学者にとってはタイミングが重要だ)。はっきり言って死に際の人間が『資本論』や『純粋理性批判』を読んでも全くの無意味であって、僕はものごとを学ぶにあたって second chance なりいくらかのチャンスを許容するけど、文科省的な「生涯学習」なんていうナンセンスは断じて許容しない。平均寿命に近い者が学問をはじめても社会科学的に言って無意味であるし、なにやら美談になったこともある、高齢者の医大入学とか博士号の取得なんかも、僕に言わせれば若者の邪魔でしかない。僕はいまでも論文博士号を請求して授かるていどの成果を出す自信はあるけれど、そんなもんこの年齢で授かってなんになるのかという気がする。学問を始める動機や目的が自己満足であることは否定しないから、親の仏壇に学位記を供えるなんて自己満足の極致であろうが、学術研究なり学問の成果全体を「人類としての自己満足」であると短絡的に集計することはできない。