Scribble at 2024-11-26 13:29:30 Last modified: unmodified

告知している科学哲学の教科書というプロジェクトには、いまのところ二つの柱がある。一つは哲学史や思想史というだけに限らず、およそ学術研究や思想と呼ばれる営為の歴史から色々な経緯や着想を汲み取り、そもそも哲学とはどういうスタンスなりアプローチの営為であり学問なのかを説くことである。これは、科学哲学の教科書で哲学全般を議論することになるという奇妙な印象を与えるかもしれないが、およそ哲学は科学とともに人類の歴史に一定の価値を保ってきた知的営為であり、僕が考える「科学哲学」というのは、いまの教育制度なり分類で言う科学や哲学の双方に関わりをもつ事柄なのである。たまたまそういうアプローチや研究スタンスに特別な呼称がないせいで、あたかも科学と哲学の「中間」とか、なんだか分かったようで分からない自己イメージだけで語っている人々が多いわけだが、そんなものは既存の分類や概念だけに頼って描いた自己正当化(つまりは自己称賛)の似顔絵にすぎない。哲学者として、そのような自己欺瞞に陥るほど無能ではないと思っているからこそ、アマチュアであろうとテキストを書けるはずと信じているわけだ。

そしてもう一つが、やはりどうしても社会科学の素養をもつ者、あるいはポストモダニズムの成果を学んだ者として、既存の科学哲学なり哲学を(「上部構造」と言っては気の毒だから、せめて)あくまでも文化的所産の一つとして理解するようなアプローチに説得力を感ずる。それらを、あからさまにであろうと暗黙にであろうと、やれメタ哲学だのフェミニストの科学哲学だの傍流だのと脇へ置くことには、強い違和感を覚える。これまで、「冷戦、ランド研究所とアメリカの科学哲学」とか、「黒人、あるいは南部の思想と科学哲学」とか、幾つかのテーマで調べてきたが、それらに加えて、それなりに数千ページを予定している教科書を制作するのであれば、どうあっても「中国やアフリカや日本や・・・ともかく欧米以外に(科学)哲学はなかった」という偏見を粉砕する視座は確保したい。というか、中世以降の欧米の哲学なんてイスラムからの成果が伝わっていなければ、いまのような経緯で成立していたかどうかも怪しいなんてことは、いくら日本でエロ本並に薄い教科書を書くしか能が無い人々でも、少しはご存知であろう。

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