Scribble at 2024-11-26 07:57:56 Last modified: 2024-11-28 07:19:29
"first-person realism" は、意識を持つ主体にそれぞれ一人称的な事実が存在するという考え方だが、これは客観的に僕らの感情とか眺めとか思考を第三者がモニタリングできないという技術的な限界なのか、それとも「原理的に」第一人称でしか経験し得ない、要するにクオリアのことを言ってるのかが、いまいちはっきりしない。
"non-solipsism" は、意識を持つ主体が僕の他にも複数存在していて、いまこの文章を読んでいる人物も、たぶんそれなりに意識をもつのだろう。でも、これこそ暇人がゾンビと遊んでるパズルと同じ話であって、寧ろ問題は「なんでそんなことを仮定したり議論しないといけないのか」という脈絡の方にあると思うんだよね。君が意識なるものを、いやそれはつまり僕が意識なるものを「もっている」と自覚したり理解したり考えることがどうして必要なのか。
"non-fragmentation" は、いま現に世界で成立している全ての事実は互いに論理的に矛盾してはいないという考え方だ。つまり、論理的に矛盾する物事は instantiate しえないということでもあろう。でも、これこそ論理的に必然とされる特徴を、寧ろ事実の方から想像しているだけではないのかという気がするけどね。
そして最後に "one world" は、現実の世界はわれわれが共有する単一の世界であるということだが、これは個数とか identification の問題というよりも、実在論のような面倒臭い概念に依存している面倒臭い観念のように思えるので、そう簡単に常識であるかのように扱えるとは思えないんだよね。
さて、これらがお互いに矛盾しているという理由として、この論文では主体が複数の意識的な状態を両立できないからだと論じている。つまり、どういう理由でなのかは知らないが、それぞれ比較可能な「意識の状態」なるものがあって、僕とあなたとでは異なる(機能主義的に同じであっても、少なくとも異なる主体によって意識されているという意味で異なる)意識の状態にあるとき、お互いの意識の状態は両立不可能である・・・えぇ・・・それって「君と僕は違う」と言ってるのと何が違うの。僕が或る意識の状態にあるときに、あなたの意識の状態を「感じる」とか、あるいはもっと下世話に「共感する」とか、いやもっとお上品に「理解する」ことが不可能であるというならともかく・・・。で、どうやら著者にとってはこの不可能性が解決するべき「問題」であるらしく、そのためには上で紹介した四つの特性のどれかを諦めなくてはならない。でも、諦めることは難しいので四つのジレンマ・・・じゃなくてテトラレンマだということらしい。
でも、さきほど一つずつご紹介するときに少しずつコメントしたように、これら四つがどれも疑わしい(少なくとも著者の定式化や概念分析は説得的ではない)と考える人にとっては、正直なところ勝手に悩んで見せてるだけにしか思えないんだよね。特に、この手の議論を読むといつも感じるんだけど、僕とあなたの意識について同じだとか比較可能だとか、そんなの意識が比較可能な対象として、まずもって「ある」と言いうるなにかであり、そして厳密かつ正確に定式化できるという前提がなくてはいけないわけで、multiple realizability の議論にしてもそうだけど、たいていは論点先取なんだよね。