Scribble at 2024-10-26 09:02:26 Last modified: 2024-10-29 07:57:15
欧米で大学制度が発達すると共に、彼らが教科書や論説を出版して販売するという風習も普及するようになった。もちろん学術研究において情報の共有はともかく、他人に教える(教育)ことは自然でもなければ必然でもないわけで、それは単なる社会制度や習慣の問題でしかない。その延長として書籍の体裁で売り歩くこともまた、自然でも必然でもない。もちろん、一部の貴族のおかかえとか自分自身が貴族だった人々とは違って、市井の人々は生活の糧がなくてはいけないので、その手段の一つとして論説を売るというのは合理的な選択でありえるし、カントのように家庭教師をしていた人物もいたわけである。
僕は高校生くらいの頃から、こうした公論に類する話題を販売するという体裁に、強い違和感をもっていた。もちろん、当時は左翼のデモに参加して機動隊員が構えるジュラルミンの盾を蹴るような生徒でもあったから、そういう青臭い義侠心のようなものが動機だったのだろう。しかしながら、いまや公に「人類史スケールの保守」を名乗るような人間となった今でも、基本的に思想としては変わっていないと自覚しているので、やはり公論に類するような提言なり成果を販売するというスタンスには、何かぼんやりとした胡散臭さを感じる。それは、しょせん世の中は4,000円の本を買って読む暇がある人々が変えていくか、変えられる人々を指導するのだという、lightweight なエリート意識やパターナリズムや官僚マインドのようなものに対してだったり、そういう違和感がありえることすら意に介さないアメリカ人に特有のビジネスライクなマインドセットや「合理主義」あるいは俗流解釈の「プラグマティズム」に対してだったりするのかもしれない。
だが、こういう僕にしても、たとえば制作しつつあるテキストをオープン・アクセスでリリースするつもりはない。計画ではアメリカの教科書並に1,000ページを超えるような分量となるから、最低でも労力に見合う報酬を受ける権利はあろうと思うからだが、そもそも僕はここで書いている文章から分かるように、哲学というものを人にとって不可欠な知的営為であるとは考えていないので、哲学の議論は公論でもなんでもないと思うからだ。特定の生物種が特定の経緯や歴史や条件において営むようになった、単なる文化的な習慣の一つにすぎない。哲学のない生活や人生が無様で低レベルであるなどというのは、根本的に間違っている。かといって、この国の愚かな通俗物書きによくある、哲学を「外道」や「極道」などと卑下して若者や無教養な連中の同情や共感を得ようとする下らないスタンスもまた、市井の研究者の一人として看過しがたい愚劣というものだ。それは、彼らが本を売らんとしている相手の境遇とはかけ離れた、金持ちお坊ちゃんのセンチメンタリズムにすぎない。