Scribble at 2024-10-29 07:30:36 Last modified: 2024-10-29 07:52:57
岡本裕一朗『哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる』p.170
ラッセルが「偉人」かどうかは定かでないと思うし、社会科学的な成果としては全くインパクトがないと言って良いはずだ(セレブの原水爆反対や戦争反対キャンペーンなんて、軍事産業や防衛官僚に言わせれば「ガス抜き装置」というものだろう)。そして、PM の影響力が大きいので、ラッセルを数学と論理学から出発してヘーゲリアンから改心して分析哲学のはしりみたいなことをやるようになった人物だ、という誤解(というか、こんな遍歴など哲学的にはどうでもいいことなのだが)がプロパーにすら広まっているようだが、そろそろ分析哲学史のようなテーマで出版されるようになって四半世紀以上が経過するようになったわけだし、「偉人」うんぬんという雑な評価の前にラッセルの正確かつ独立した批評が望まれるんだよね。正直なところ、竹尾先生ともまともに話したことがなくて残念なのだけど、僕はいまだに「分析哲学」というのがよく分からないので、なおさらだ。当サイトでは何度か揶揄するようなことを書いているが、僕にとっては、最初から(概念的な体系から言っても、それから歴史的な経緯としても)内容が殆どないことがらを嘲笑しているだけなので、僕が書いていることに立腹するような人がいても、それは錯覚だと思うよ。「分析哲学者」なんていう自意識を持ってる方がおかしいと思う。
なんにせよ、ラッセルが言ったとされる、「いちばん頭のいいときに数学をやり、少しアホになったので哲学をやり、さらに耄碌してきたから歴史(政治)をやった」とかいう主旨の放言については、僕も見聞きしたことがある。そして、僕ら哲学者はそういう放言に興味はないので、すぐに忘れるものだ。学生だろうとプロパーだろうと、哲学者はその手の些事に関心を抱く暇などないからだ。
したがって、こういうつまらない聞きかじりの(つまりソースの有無を調べもしていない)逸話を並べて、哲学する動機も事情も目的もない人が面白おかしく読む文章を書けば「哲学入門」とか introductory な動機づけになると錯覚している、岡本某や飲茶某のような雑文書きが、哲学者としてはもちろん哲学教員なり哲学のコーディネイターとしても不適格であることは、僕らのような哲学者に言わせれば、はっきり言ってソクラテスの時代から自明なのである。これは、たとえば日本科学哲学会が「ハラスメント防止宣言」で言及している類のヘイトスピーチや放言かね? きみらまともなプロパーなら、まともな哲学史の勉強くらいしてるだろうから、分かっているはずだがね。それとも、こんなことすら、哲学史の教科書に書かれたリテラル情報からつかみとる読解力もなくて哲学教員をやっているのかな?(もちろん、この表現が或る種の loaded language であることは認める。)