Scribble at 2024-10-03 17:34:34 Last modified: 2024-10-05 07:59:09

「社会科学の科学哲学」というのは、もちろん僕も着想としては支持できるし、ローゼンバーグのテキストが出る前からでも、プロパーならサモン(奥さんのほう)のテキストでも一定の知見を得ていた方は多くいるだろうと思う。僕の場合は、1990年代の前半頃に経済学方法論と称して、「最先端の論理実証主義」にもとづく経済哲学を語るという、かなり恥ずかしい著作物を眺めていたし、確か都市計画論でも、例のポストモダンが流行したときと同じく、建築家が暇潰しに哲学や社会思想から脱構築だの観察の理論負荷性だのなんのと安っぽいアイデアだけを借りてきて、愚劣な建物をこの国で数多く建てたりしてきた。それが、建設・土木官僚と土建屋のプロパガンダに乗っかってやっていたことなのだから、社会科学やポストモダンの著作にも親しんでいた科学哲学の学生から見れば、失笑というか呆れるしかなかった。

そして、今現在も殆ど状況は変わっていないと思う。確かに、経済学の哲学とか、そういうテキストは少しずつ出てきているけれど、概論を出す前に業績としてのインパクトがなければ、そんなもん誰も学ぶ気にはなれまい。科学哲学そのものにしたって、やはりなんだかんだ言っても「パラダイム」という言葉が広くインパクトを与えたからこそ、このていどは通俗本を書く人々が出てきているわけである。そういうものなくして、経済についても議論できます、社会についても哲学しようと言ったところで、「さて経済とは」みたいな big question を、学部レベルの経済学すら学んでいないような連中がお喋りし始めるだけだ。そして、"philosophy for everyone" みたいなものの実態とは、そういう馬鹿げた世間話の集積でしかあるまい。そんなものが「集合知」とやらに集積する確率なんて、5秒後に「真空崩壊」とやらが起きて宇宙が消失する確率よりも低かろう。

ということで、これから頑張ってもらいたいところではある。こんなことを書いていても、実際にはそういうアプローチなり着想はサポートしたいからだ。僕にしても、法哲学とも経済の哲学とも違う、科学哲学の着眼点やアプローチを採用した、「独占禁止法の科学哲学」みたいな研究は可能だと思っている。現代のグローバル経済なり自由市場の国家や国際関係の中で生活しておきながら、独占禁止法の理解もなしに「自由」などという言葉を哲学者として使うことは許されないだろう。かつて、僕はレポートや論文を提出するたびに「きみ文章からは認識論の臭いがするね」とか楽しい皮肉を竹尾先生から言われたものだが、僕は科学哲学が「本質的に」(概念として、あるいは経緯として)存在論であるなんて全く思っていない(しかも、僕にとって「存在論」とはハイデガーの言う意味でしかありえないと思うので)。つまり、僕は指導教官と、因果関係にかんする実在論(因果法則の実在)をとるか反実在論をとるかという点で鍔迫り合いしていただけではないのである。

さて、実際に手掛けるとなると、大別して二つのアプローチが考えられる。一つは、もちろん現実の法令を正確かつ厳密に理解するために何らかの定式化や概念分析で貢献するということであり、もう一つは、独占禁止法が拠って立つ「競争」や「公正・不正」の概念を社会思想や法思想あるいは経済思想などの社会科学全般にわたるスケールで捉え直して、現状の法令や規制の内容をフィードバックして批評するための足がかりにするものだ。確かに、どちらの議論も抵抗や反発はあろう。公正取引委員会や弁護士などの法曹からは実務の役に立たないと言われたり、実定法の研究者からは理論や判例の評価に使えないと言われたり、それから学生にすれば大学あるいは司法試験の役に立たないと言われたりする。まぁ、役に立つかどうかなんて、個々人が勝手に思うのはいいが、それを一般化して言うなといつも思ってるから、役立てる知性に欠けた者は死ぬまで文句を言い続けるのだろうとしか考えていないがね。

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