Scribble at 2024-10-02 22:32:57 Last modified: unmodified
先日は、古典的な著作物を読むにあたって著者の人物(像)やら来歴を詳しく知る必要があるという、およそ人文系の学科では不文律のような観念に、現実的な実証の話としてどれほどの説得力があるのかという話題を取り上げた。
もともと、こういう話題を取り上げようとした理由は、別の事情がある。それは、このまえジュンク堂に立ち寄ったときに、ベネターの『生まれてこない方が良かった』という訳本の、実質的には「訂正版」とも言うべきものが出ていたからだ。初版を出した後で、訳者が全く承服できないコメントも含めて相当な反響があったらしく、中には二人ほどの人物が多くの点についてコメントを加えたとのことで、それらを殆ど反映したという。どれほどの量なのかは分からないし、はっきり言って(哲学者としては)興味もないが、ともあれ加えられた意見の大半を反映したというのであるから、それはつまり量がどれほどであれ「訂正版」と言うべきものである。もちろん、僕はこんなことで訳者を非難するつもりはない。そもそも、たいていの文章なんてオリジナルの著者ですら自分の言いたいことを正しくコンセプトとして認知した上で特定の言語で表出しているなんて保証は全く無いのだから、更に翻訳者が誤解したり誤訳するようなリスクがあるからといって、そのような殆ど自然の摂理みたいなものに憤りを覚えるのは、単に不見識というほかにない。まるでリンゴが木から落ちるのを眺めて、「なんで落ちるんだ!」と怒るようなものだ・・・言っとくけど、MarkupDancing では皮肉としてこういう書き方をするんだけど、こっちでは皮肉として書いてるわけじゃない。
で、ここで問いたいのは、初版を読んだだけの人はベネターの反出生主義について何も語る権利がないのかということである。もちろん、内容を理解するにあたって致命的な誤訳があるというなら、それはありえる。しかし、もしそんなことが起きているのであれば、版を改めて再び数千円を出して買ってくださいというのは、あまりにも出版社や翻訳者として誠実さに欠けるであろう。僕は、まともな常識をもっているなら、そういう致命的な誤訳がある場合は、オンラインに正誤表を掲載するべきだと思う。版元の「すずさわ書店」はウェブサイトをもっていないようなので、訳者が Google Sites などで公開してもいいだろう。でも、そういう必要を感じていないということは、本書を読むにあたって何か致命的な誤解を生じるような箇所はないということなのだろう。
これがどうして古典の著者について来歴を知っている必要があるのかという話題につながるのかというと、これはこれで説明してもいいのだが、正直なところこれだけ書けば僕が何を疑問に感じているかは、プロパーの研究者(と、まともなレベルの学生やアマチュア)であればおわかりであろう。