Scribble at 2024-10-01 17:38:57 Last modified: 2024-10-01 17:44:18

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Vanishing Culture: Preserving Cookbooks

デジタル化という手続きなりテクノロジーが、アーカイブというコンセプトについての決定的な解決策であるというのは、僕ははっきり言って錯覚だと思う。アーカイブは、どう考えても社会科学の議論によって取り上げたり具体的な解決策を提案したり実行するべきものであり、「べき」というよりも事実としてそうなっている。たとえば、日本にある国立国会図書館がアーカイブのコンセプトを満たす施設として永続するためには、周辺にある三つの仮想敵国から侵略されないようにしなくてはならない。いや、かなりナイーブな右翼だったら、それに加えて二つほど(もちろん、韓国とアメリカだ)の仮想敵国を追加するかもしれない。なんにしても、どこが管理したり運営するのであれ、或る設備なり施設がアーカイブとして成立・維持されるには、どう考えても経済や政治によるサポートが不可欠だ。どういう記録メディアに保存すれば何年くらいデータが消えないだの、そんな自然科学の理屈は、敢えて言うが経済や政治の前では「カス」みたいなものだ。われわれ科学哲学者は、こういう現実も踏まえたうえで「科学」という概念を理解し扱い、そして君らが本を売りまくっている相手である「文化的な洟垂れ小僧」どもに何かを伝えなくてはならない。

そもそも、アーカイブなどと議論する以前に、料理本とか手芸本とか、フェミニストに何か言われるのを覚悟の上で言えば「家政」に関わる書物というものは、どう考えても著者の素養にも話題そのものにも体系が欠落していて、歴史的に言っても関わってきたのは家庭の(本を書くていどには)暇な主婦だとか、今で言えば夥しい種類の肩書に細分化されている「なんとか研究家」を名乗る成金主婦とかだろう。あるいは、せいぜい男性がそういうテーマに関わるとしても、意図の不明な正義感を抱いた「僕は男でもフェミニストです」系の左翼とか、そういう学術的にはどうしようもないレベルの人材だ。よって、そういうガラクタの寄せ集めみたいな話題の周辺にある、栄養学とか、家政学とか、調理学とか、果ては生化学のような分野ですら、取り上げる話題によっては未熟な学問として扱われる。栄養学なんて、十年一日のごとくコーヒーやチョコレートは身体に良いか悪いかと喋り続けているような学問だと見做されていよう。

このように、学問としてのメソッドやデータ、あるいは業績の蓄積が殆どないと思われるような分野は、みなさんのような賢い人々が手慰みに参加しても大きな業績を挙げられるのではないかと思えるが、しかし科学哲学や分析哲学の通俗本を書いたり、国公立大学で科学哲学を教えたり院生として学んでいるような諸君が、コーヒーの栄養について調べ始めるとは、とても思えないわけである。ああ、そういえばサプリメントに詳しい人はいたっけ。誰かに聞いた話では、1日に数百粒のサプリメントを飲んでおられるようだが、小林製薬の紅麹系の商品はそれら数百の中に入っているのだろうか。

よって、今日の献立は刹那的に出版される薄っぺらな本を適当に読んで作るか、あるいは Cookpad のようなサイトで明日は消えてしまうかもしれないページを眺めては、場当たり的に作るほかなく、そういう経験を各自が手帳に書き留めたとしても、それはその人や子供に受け継がれるていどで終わる。たかだか他人が書いたり投稿した情報を集めたくらいで、それが一子相伝の陸奥圓明流とか北斗神拳みたいなものになるわけでもないし、出鱈目に市場に現れては消えてゆき、それを読んだ人々にとっても同じような具合に刹那的なものとして扱われて終わる。

もちろんだが、料理に決定的な答えとか最善の料理(方法)があるとは限らないわけなので、方法や知見を体系的に知識として積み上げたり相互の批評を公に展開するようなコミュニティができたからといっても、それだけのことで何かが解決するわけでもなかろう。しかし、現状のままでは1,000年前の献立を再発見するような人々が延々と現れては消えてゆくだけである。非効率の極地と言ってもよい状況が繰り返されるわけだが、さてそれがいったい何だというのか。それによって女性というか料理を作る人にとって何か不当なことが起きたり、彼ら彼女らの人権が侵害されるわけでもなければ、そのような非効率にさほど重大な由々しき問題はなかろうということだろうか。

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