Scribble at 2024-10-01 08:18:33 Last modified: unmodified
特に人文系の古典的な著作物を購読したり、それをテーマにして研究する場合に、たいていの指導教官が口にするコメントあるいは翻訳者の解説で、著者の来歴や人柄それから著者が生きていた時代の状況を詳しく知る必要があると言われる。しかし、そういう(著作物の内容を単に読む作業と比べて遥かに膨大な)作業や知識を要求して、それがいったい何になるのかを明解に示せる哲学教員というのは、殆ど存在しない。「デイヴィッド・ヒュームは18世紀に生きていた」という事実から彼らが言えることは、せいぜい「デイヴィッド・ヒュームは iPhone 16 を使ったことがない」とか「デイヴィッド・ヒュームはプラトンと世間話したことがない」とか、その手の事実さえ知っていれば子供でも言えることくらいしかない。こうした古典あるいは「古典を書いたヒーロー」の祖述者はエピゴーネンであることも多いので、思い込みではないのか。
実際、相対性理論の厳密で明解な解説を書いたパウリやワイルといった人々は、アインシュタインがベルンの特許庁で働いていた時代に幾らの給料をもらっていたかなど知らないだろう。でも、それがいったいなんだというのか。分析哲学の泰斗と呼ばれるような、みなさんの指導教官は、恐らくその手の都市伝説がお好きな東大暗記小僧の成れの果てであろうから、たぶんウィトゲンシュタインやラッセルやフレーゲのありとあらゆる情報を御存知であろう。たとえば、生涯に何回くらい屁をこいたとか・・・それで? Cambridge University Press から何か画期的な業績と称されるような本を出版できたんだろうか。
もちろん、たぶんそうであろうと言えるだけの予感みたいなものだけで何らかの仮説や思いつきにコミットしてもよい。そういうチャレンジに水を差す意図があって、こんなことを書いているわけではない。もしも現実に力強い成果が少しでも出るのであれば、いやこれまでに東アジアの辺境国家で明治時代から150年ほどをかけて、誰か一人でも強力な議論を世界中に示せたという実績があるなら、そういうチャレンジに後輩としても取り組んでみる価値があろう。でも、みなさんの(フェルミ推計してもしょうがないので、ともかく数多くの)先学は、いったいそういう実績を出したのか。あれば、それをまず最初に掲げつべきであろう。それなくして、やれ誰それの「全体像」だの「深い理解」だのと、何の見通しも証拠もない作業に人を誘導するのは、はっきり言って他人の人生という時間の一部に対する窃盗行為であって、文化犯罪・学術犯罪である。