Scribble at 2024-09-05 15:38:06 Last modified: unmodified

確率についての哲学的な議論というものは、本質的には「確率って何なの?」という一つの問いに集約できると思う。というか、そういうことを一つの前提にして、神戸大学では博士論文のテーマにしたのであった。実際には中退したから論文は書いていないわけだが、いちおう研究計画書を提出して受理されたので、海外の大学では "Ph. D. candidate" と同じていどの段階までは進んだと考えている。もちろん博士の学位を得ていなければ、大学という制度的な基準で言えば「カス」みたいなもので、いまどき僕がもっている修士号なんて学位は、アメリカや中国のアカデミズムと大手企業では学歴のうちに入らないだろう。

確率のステータス、つまり身分が哲学として考える場合の最も重要な問いになるのは、確率のステータスがどうであるかによって「世界」についての理解も強い影響を受けるからだ。もし確率が宇宙なり世界のありようを反映している特性なり特徴であるなら、決定論的な世界観から運命のような世俗的観念に至る大半の言葉は実質的な意味を失ってしまう。ただの言葉の彩にすぎなくなるというわけだ。なぜなら、それらは世界について本質を何も語っていないからである。他方で、もし確率が「統計」のような経験則を記述するための道具にすぎないというのであれば、確率を使ったどれほど厳密な数式であれ、それらは結局のところ世界についてわれわれの理解や認識が未熟であるがゆえに頼らざるをえない、それこそ言葉の彩みたいなものだということになる。それを使って色々な理屈を考えたり商品を開発できているという範囲においては便利で妥当な道具であって、それどころか単なる道具であろうと僕らの生活や人生を変えてしまう可能性すらあろう。でも、しょせんは世界を理解するための、高性能ではあるが解像度の低い顕微鏡のようなものにすぎない。

こうして、僕が修士課程(博士課程の前期課程とも言う)で研究していた、確率論を導入した因果関係の概念という研究についても、確率をどう理解するかによって因果関係の理解も影響を被る。もし確率が単なる(高度で厳密ではあっても)言葉の彩にすぎないなら、それを使って定式化される因果関係も事物の様子をおおまかに理解するための認識論的なフレームにすぎないという話になる。というか、そういう学説を支持することになる。でも、因果関係の場合は、仮に確率が世界の特性を本当に表しているとしても、それを使った関係を原因と結果の関係として理解できるかどうかという議論とは別に考えてもよい。なぜなら、"to save a causation" など科学哲学者としての使命でもなければ理想でもなんでもないからだ。そういうイデオロギーで哲学をやるのは、せいぜい学部レベルであろう。

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