Scribble at 2024-08-01 12:41:33 Last modified: 2024-08-01 13:15:39
先日、古本屋で手に入れた伊藤仁斎の評伝(吉川弘文館、1973)を一読して、鹿持雅澄と同じく学術研究者としてなにほどか敬服に値するところがある人物であることは分かるにしても、彼らの著作については具体的に学ぶつもりがない。したがって、鹿持雅澄の『万葉集古義』だとか、伊藤仁斎の『語孟字義』には、さほど興味がない。せいぜい、彼らの学術について自ら語ったとされる、鹿持雅澄なら『古学大意』であるとか、伊藤仁斎だと『童子問』くらいを読むのが限度だと思う。そうは言っても、鹿持雅澄については『山斎集』が手元にあるので、それなりに人となりを推し量る資料は幾らか揃えているつもりだ。
科学哲学を標榜するサイトで国学だの儒学だのという話をしている様子は、まるで僕が過去におちょくった、「棺桶に足を突っ込んでる分析哲学のプロパーはどうして禅の話を始めてしまうのか問題」と似たような状況に見えるかもしれない。もちろん、僕は仏教というか宗教については、もう多くを学ぼうという気はない。実母が亡くなってから2年ほど、仏教については自分でも辟易するくらい本を買ったり読んでみて、やはりあれの壮大な著作や概念装置や作法や修行の類も、「死ぬのが怖い」という強迫観念をごまかす自己欺瞞だと思ったからだ。なので、せいぜい宗教について扱っている文化人類学の成果を学ぶていどだろう。
もちろん、道徳や倫理に関わる数多くの思想についても、そもそも道徳や倫理がどうして必要だったのかという点からして、似たような結論を得る可能性があろう。それを確かめるためにも、やはり仏教については阿含経の訳本から清沢満之に至る色々な著作を読んだのと同じく、儒教については『論語』から出発していくらかの知見を得たり考える経験を積まないといけない。僕は科学哲学のプロパーではないから、出版した本の傾向から他人に判断されるような事情とは無縁でもあるし、もともと僕との付き合いが長い人たちにしてみれば、さほど奇妙な話題に手を広げたという印象はないであろう。ただ、こうして公に文章を述べているような場においては、なるほど PHILSCI.INFO なんていうドメインまで使ってるサイトで『論語』も何もないだろうという印象は与える。なので、何か儒教や仏教について書くとしても MarkupDancing の方でということになる。実際、鹿持雅澄については MD の方で書いているのだし、こちらにこういう話題を超えて(というか、こういう話題ですら奇異に思う人もいるとは思うが)書く必要はない。
それにしても、あらためて『論語』について訳本や注釈書を調べていると、その数の多さに圧倒される。もちろん「ビジネスに使える!」とか「超訳」とか「丸の内のOLを落とす論語の一言」みたいな、愚劣としか言いようがない駄本の類は無視するとして(そういう無能や馬鹿や売文家の本を読むことが「社会勉強」であるというのは、実は出版社のプロパガンダにすぎない)も、そもそも中国において『論語』の「翻訳」が出ているくらいなのだから、現代の中国人にとっても『論語』は日本で言う古文のようなものなのであろう。また、図書館で調べて分かることとして、『論語』の注釈書や現代語訳はよく出ているが、『論語』の研究書というものは1980年代以降に殆ど出ていない(もちろん重版は除く)。なので、今世紀に入ってから読むべきものは注釈書の類だけであって、他に「論語」を書名に使っている出版物は、おおむね全て無視しても構わないと思う。特に、渋沢栄一自身の著作もそうだが、彼の講釈に関するそのまたエピゴーネンが書いた通俗ビジネス本の類などは輪をかけて馬鹿げており、どれほど古典だ経営の真髄だと偉そうなことを言っていようと、しょせんは「男の論語」だの「論語に学ぶ人生」だのと安っぽい受け売りを綴っているようなクズどもと大同小異であろう。こういうのは、またさきごろも新しく発売された「わかる哲学」的な駄本と同じで、哲学がおよそ「わかる」とか「わからない」とはどういうことなのかを何千年にもわたって問い続けている学問であることを全く理解していない、無能なプロパーや素人の物書きによるインチキ解説なのだ。