Scribble at 2024-07-21 08:17:35 Last modified: 2024-07-28 19:34:00
文庫やら単行本やら、多くの通釈やフォーマットの『論語』を目にしてきたのだけれど、ここで『論語』の話を書くのも場違いな気がするし、多くの哲学プロパーにおいては蛇足もいいところだと思うが、ひとまず中高生や素養のない人々に対する助言の一つとして書いておこう。もちろん、助言が正しいとは限らないという点にも注意が必要だ。
まず、初めて『論語』を読む人、いやそれに限らず古今東西の「古典」と呼ばれる著作物に触れたいと思っている人には、『論語』の場合は翻訳だが、臆さずに原典を手に入れてもらいたいというアドバイスをしたい。これは(小学生時代から考古学で、浜田耕作氏や小林行雄氏らの古典を何冊か読んできた経験があるので)、僕が高校時代から言っていることだ。ここで、なにやらコンプレックスから疑問を感じる人に言っておきたいが、古典をいきなり読めるのは、学識や才能があるからではない。僕は、「いきなり古典は読める(#ただしイケメン、じゃなくて有能な人に限る)」みたいな話をして自慢したいわけではない。もちろん、概念として理解できていない言葉だけを知っているだけでは困るから、一定の素養は必要だ。でも、それはアカデミックな資格でもなければ、道徳的あるいはイデオロギーの要求みたいなものでもない。逆に『論語』を読んでみて、分からない言葉(つまりはその意味や概念)があれば、自分に何が不足しているのかが分かるのだから、それは良いことだと思うくらいのつもりで古典に向かうこともあってよいわけである。
それを、昨今の出版社というのは、知的離乳食とでも言えるような通俗本を出すことばかりにかまけており、それどころか駄本をばらまくような社会的愚行を「啓蒙」だと言い放つ傲慢さすらあるらしい。まことに、権威主義者としては偽の権威を押し付ける不届きな連中であるとしか言いようがない(もちろん全てではない。僕は単純に「80 vs. 20 のルール」を雑に信じているので、馬鹿の中にも2割くらいマシな人々がいると思う。もし期待が全くできないなら、そんなカス国家や欠陥民族は中国やロシアや北朝鮮、いやアメリカにでも駆逐・同化されて消滅してしまえばいいのだ。われわれのような人類史スケールの保守思想家にとっては、「日本」なんていう単位の文化や国や民族など些末な話である)。ということで、「90分でわかる『論語』」だとか「超訳論語」だとか「キャバ嬢が教える論語」・・・いや、キャバ嬢には地方大学の大学院生くらいなら軽く凌駕するくらい知性もあって勉強してる人もいるから、これは失礼な話だが、ともかくその手の本で手っ取り早く『論語』の「まとめ」とか要点を単に記憶したいというタイパ志向では、お金や時間や労力が無駄になると言いたい。これは哲学、科学哲学、いや現象学だろうと気象学だろうと物性物理学だろうと栄養学だろうと同じだと思うが、そういう知的離乳食へすぐに手を出す人というのは、実際には大半が離乳食しか食べられない人になりやすい。つまり、そこから成長して普通の食事ができる大人になるなんてことは殆どないのだ。現に、『ソフィーの世界』を読んで哲学のプロパーになった人間など一人もいないし、いや研究者でなくとも、それを読んでまずもって人として何事か自分自身や他人に貢献した人なんて、実際にはいないと思う。そういうものは、アダルト・ビデオのようなものであって、なにやら表面的には「知」に関わる崇高な書物として販売されてはいるようだが、単なる刹那的な享楽のための消費物にすぎないのである。社会科学的に大規模な調査がないから誰もエビデンスなど示せないわけだが、そんな通俗本が「われわれの世界」を改善・進展させたり、「われわれ自身」を成長させている証拠や兆候などまるでないのだ。全ては単なる集団催眠・集団幻想にすぎない。もちろん、だからといって啓蒙全般だとか教育全般が無意味であるわけがない。しかし、少なくとも通俗本の出版や読書は、それらに似てはいるが、ぜんぜん関係のないことなのだ。
なので、たとえば愚昧な出版業者のヒーローである斎藤孝氏も『論語』の通俗本を書いているらしいが、ああした駄本にも手を出さないことである。そもそも、古典の通俗本であろうと、その執筆における要件として、原典を読めるということは必須の筈なのだが、この齋藤氏が中国語の文章を読める証拠などなにもないわけである。正直、古代の中国語を理解していないような人間が、他人の翻訳や読み下しで読んでいる分際で他人に『論語』を説いて見せるなど、渋沢栄一だろうと誰だろうと傲慢もはなはだしい。翻訳でしか読めない人間のやることは、読んだうえで自らの成果を出し、そして業績と称えられるまでの実績を残すことに責務がある。孔子や論語の語句をタイトルに付けてイージーな解説本や駄本を売りさばくことなど、おまえたちエピゴーネンや素人祖述者のやることではないのだ。元東大暗記小僧の一人だから一夜漬けで中国語の辞書を扱えるのかもしれないが、それは学者として「読める」という意味にはならない。そもそも、この人物の名前を僕が初めて知ったのは、ダニエル・デネットの Consciousness Explained の翻訳者の一人としてだったのだが、それから気が付かないうちに現象学の身体論をかじった経緯からか教育学を専攻するようになって、次に書店で彼の名前を見かけたときは、夥しい数の駄本の著者としてだった。もちろんテレビ番組にも出ていて、広告代理店のコピーライターかと思うような、口先のテクニックの話ばかりしている人物という印象を受けた。彼にとっての「身体論」とは、要するに口先で他人をどう錯覚させるかという話なのだろう。よって、彼が手掛けている『論語』の著作物にしても、つまりは未熟でものを考える力がない人々に、自分は古典の真髄に触れているのだと錯覚させるための自己催眠術(あるいは学歴コンプレックスなどを解消してくれるヒーリング)の本なのであろう。そういや、彼は経営関連でもジョン・C・マクスウェルの著書を『「一勝九敗」の成功法則』などと訳して売っているわけだが、原著を読んでいる者としては、あれもまた「超訳」の一種だと言いたい。
さて、それではどういうものを読んだらいいのかという具体的な話になると、まず何か一冊を手にとって通読するべきであるという原則があって、それが不十分であっても簡単に他のものへ手を出さないことが望ましいと思う。もちろん、「古典的な著作」には概論書や基本書のように読み比べるような類書がない場合もあるわけだが、『論語』や『純粋理性批判』のような著作だと数多くの通釈や解説をほどこした類書が多くあるので、そういう話になる。すると、やはり日本では手に取りやすい文庫(新書版は、「中公クラシックス」などを除けば、あまり例がない)をお勧めする。実は、文庫版の『論語』にはあまり適切に編集されているものは少ないと言えるが、ひとまず通釈に目を通すだけでも役に立つ。
まず、最もスタンダードとされるのが金谷 治氏による岩波文庫なのだが、僕はお勧めしない。理由の一つは、本書は語釈が少なくて、読み下し文や通釈は書いてあるが、個々の言葉が理解できないという人も多いと思われる。たとえば冒頭の「学而第一」ですら、「亦た」の意味がぜんぜん説明されていないのだから、漢文を高校時代に詳しく学んだ人でもなければ、どれほど通釈で「いかにも」と書かれていようと、何が「いかにも」なのかわからないであろう。これは、「不亦~乎」という構文で反語の強調を意味するという漢文の知識がないと、いきなり「いかにも」などと意訳されても多くの人は読み下し文と通釈のズレを自ら補えない可能性がある。しかし、通釈で読み下し文からのズレを補いすぎている事例もあって、たとえば宇野哲人氏による『論語新釈』(講談社学術文庫)などは、通釈に意訳が挟まれすぎていて困惑させられる。
正直、語釈を丁寧に与えたら、通釈は最低限の現代語訳に留めるべきだと思う。なぜなら、多くの初心者にとって通釈は「正解」と見做される傾向にあるわけだが、古典を読む本来の意義は通釈者の「正解」を情報として記憶することにあるわけではないし、もちろんまともな著者であればそういうつもりで手掛けているはずだからだ。ただ、語釈を言葉の解説や文法に至るまで細かく記載すると煩雑になるため、段落全体としての見通しを得るためのガイドとして通釈を掲載するのは妥当だと思う。
そういう点から、文庫には実は適当なものがないと僕は思っていて、やはり金額は高いので手が出し辛いのは事実だから、まずは図書館で借りて読むことを勧めたいが(そして手元に置いて精読する価値があると思えば、1万円でも2万円でも買うべきである。1週間もアルバイトすれば買えるはずだ)、単行本の方が手堅いのは確かである。特に、国内の研究者にとってはデファクト・スタンダードと言ってよい、明治書院の「新釈漢文大系」は、古典を読もうというなら一度は図書館や書店で手にとってみることをお勧めする。ただし、闇雲に「すんごい本だ」などと言って買えとか読めと言っているわけではない。なぜなら、実際にここ数日のあいだ『伝習録』を通読していたのだが、やはり高額な書籍として重刷が難しいからだとは思うが、誤記・誤植が多い。理解をあやまつほどの致命的な問題はないようだが、正直なところ読み進めていて気にはなる。文庫本だと、スタンダードなものになれば何度も重刷されて修正できることも多いので、内容はさすがに安定している。
それから、日本で儒教関連というと、どうしても安岡正篤氏の名前が出てくると思うのだが、無知無教養な右翼の方々には気の毒だが、保守の思想家として彼の著作は無視して良いと言わざるをえない。安岡氏は、確かに世俗的な記録の上では、昭和の時代にあって数々の政治家を指南したと言われる右翼の大物とされている。その手の「有名人」であることは確かだろう。でも学術的には、アマチュアだからというだけの理由ではなく、特に議論の余地もなくスルーされている。イデオロギーや政治家との癒着といった事情がなくても、敢えて積極的に非難したり黙殺するような必要もなく、単に学術的な水準で言ってカスみたいな成果しか出していないのだ。それから、80年代に彼が亡くなった後は、彼が起こした師友協会という団体も、関西師友協会、姫路師友協会、北海道師友協会などがウェブサイトまで運営していたようだが、それらも既にない。いまでは、彼の孫にあたる女性が細々と道徳教育のセミナーを開いているていどのようだ。そして、『論語』そのものではなく、論語について述べている安岡氏や渋沢栄一に学ぶなどと称して、古典の研鑽と個人崇拝とを混同している愚かな「啓発」を続けているらしい。やれやれ。こういう連中は長生きするよね。
で、なんでこんなことになってるのかというと、実は事情なんて簡単な話なのである。それは、『論語』に関する学術研究書が殆ど日本では出版されていないという事実でも分かるように、日本には『論語』が書かれた当時の中国語や中国史だけでなく、それ以降の解釈や研究の成果を述べた中国語や朝鮮語の研究書(場合によっては日本の古代から近世に至る和本だとか、イギリスやドイツの研究書も読む必要があろう)を読める人材が殆どいないからだ。特に、この国では朝鮮半島で積み上げられてきた研究実績を殆ど参照せずに、せいぜい中国の研究書や注釈書しか読まない傾向がある。つまり、安岡正篤氏や貝塚茂樹氏や吉川幸次郎氏のように中国語を解する人であっても、恐らく朝鮮語の研究書までは読んでいないと思われるわけなので、つまるところ彼らのようなレベルの人々を除けば、素人が浅薄な解釈や不勉強な理解の本を出しているにすぎないのである。これをたとえばニーチェや古代ギリシアの思想に置き換えるなら、ドイツ語やギリシア語を学んでいない人々が、『超訳ニーチェ』や『嫌われる勇気』だけを読んでニーチェや古代ギリシア思想について語っているようなものである。これが国家規模の文化的恥辱と言わずになんと言えばいいのか、人類史スケールの真の保守を名乗っている人間としては困惑させられる他にない。
でも、だからといって日本で『論語』を語るに値する者がいないとは言っていない。たとえば、中国史、古代中国語、朝鮮史、古代朝鮮語などの研究者でチームを作って成果を突き合わせるというプロジェクトは可能だろう。なにも単独で全ての分野を専攻する必要もなければ、その義務もない。しょせん学問は、孤立して単独で行う営為ではないのであるから、それも一つの選択肢だし可能性でもあろう。僕は、一人でなんでもかんでも習得して『論語』を説くような碩学を待望しているわけではない。学問というものは業績と言えるまでの成果を積み上げたらそれでいいのであり、多人数で取り組もうとアマチュアが加わっていようと外国人が加わっていようと、そんなことはどうでもよい。学者は結果が全てなのであって、業績として明白に何も積み上がっていないからこそ、僕は日本に『論語』の研究業績なんて存在しないし、その端緒すら見当たらないと言っているだけのことである。これがもし侮蔑であると思うなら、学者は結果を公にするべきであり、それが学者の生きている意味であり、大学で他人にものを教える「暴力」をふるい、そしてわれわれアマチュアよりも優先して本を書いたり話を聞いてもらえる権威を与えられているのである。結果がなければ、こうしてアマチュアのジジイに首をへし折られるほどの苦痛にも耐えなくてはならない。