Scribble at 2024-07-17 09:44:58 Last modified: unmodified

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Scribble at 2024-07-17 08:01:19

夏の課題図書を紹介した落書きに関連して、こちらでは別の話をしておく。

書店にあふれている哲学の入門書だとか通俗本というものの大半は、たいていが自分の力でものを考える才能がない単なる読書家や「情報処理野郎」が、データにものを言わせて哲学史の事項やジャーゴンや論争を並べ立てているだけの話でしかない。そして、そういうもので溢れている書物を読むことに戸惑いを覚える人々の不安を和らげるために、「元ゲーム作家」だの「元SE」だの「哲学アイドル」だのを引っ張り出してきたり、あるいは表紙に稚拙なイラストの哲学者だとか、あるいはスカートの短い女子高生、あるいはエロアニメ業界で「ビキニアーマー」と呼ばれる半裸の武装をした女騎士とかを描くわけである。あたまおかしいだろ、おまえら。そして、君ら高校生や凡人というのは、徹底的かつ根本的に、この国の哲学教員や出版社や物書きに、こんなクズみたいなものを買わされたり読まされて、実は啓蒙と称して愚弄されているのだ。僕は、ややエキセントリックな表現を使っているものの、それを哲学者として端的に指摘しているだけのことなのである。

哲学が何であるかは定義などないし、あっても殆ど意味を為さないと思うのだが、少なくとも多くのプロパーが同意することとして、一つの特徴に「拘り」というものがあると言ってよいだろう。そして、これは実際に僕が学部時代に中澤良和先生というメルロ=ポンティを研究されていた恩師から教えられたことでもある(なんで現象学の研究者が科学哲学者の恩師なのかは、「哲学」のプロパーなら疑問など思うまい。よって、特に説明はしない。ましてや弁解などナンセンスだ)。それをそのまま実行することでも、哲学とおもわしき営為のささやかな実例にはなろうかと思う。

上の落書きで、今年の夏休みの課題図書の一つに『伝習録』を選んだ。ご存知のように、王陽明の語録である。そして、これもよく知られているように「知行合一」が説かれている書としても知られる。こうした、知行、言行、あるいは「理論と実践」だとか「理想と現実」などという対比は、それこそ古来より数多くの著作で取り上げられてきたし、哲学として取り組むに値する題材でもあろう。しかし、いわゆる哲学の入門書と名乗る本で、こういう話題を一つだけ取り上げて丁寧に議論するというスタイルのものは殆どない。その理由は、おそらく入門書というものが或る種の「マス」を対象にしているという錯覚だろうと言いたい。色々な人に読まれるように、それこそアダルトビデオの分析哲学、ドーナツの穴の形而上学、癌サバイバーの現象学、オブジェクト指向なんとかかんとか、圏論がどうのこうの、あるいは他にも色々な話題について色々なアプローチを「紹介」することが入門書の効用であり役割であるという思い込みが出版業界に蔓延しているからなのだろう。そして、どういう話題やアプローチを選ぶかによって「多様な」哲学のケーパビリティを一般向けに紹介できるというわけなのだろう。

しかし、これは多様性という発想の曲解であろう。なぜなら、そういう思い込みでどこの出版社も「同じような通俗本」を毎月のように出版することによって、却って多様性が失われているからだ。どこの出版社が出す哲学の入門書であろうと、まず冒頭の序文で著者が軽い自虐ネタを書いたり、若者文化に理解があるおじさんアピールをしたり、いかにも「日常生活」な話題から説き初めたり、あるいは逆に厳格な前置きを書いていながらツンデレという、いまどきの若者からすれば想定内の「オヤジ」のノリでしかないプロパーの独り語りに、多くの人は辟易させられる。introductory な書物として書かれた筈の通俗本において、その冒頭ですら更に下世話なことを書かなければ若者や一般人は読み進めてくれないという思い込みがあるからだ。しかし、僕ら哲学者に言わせれば、そんなことを書かなければ読み始めようともしない人間は、そもそも哲学の本なんて買わないし手に取ったりしないのだ。というか、そういう割り切りが必要なのであって、本の読み手にも資格が求められるというくらいのスタンスなしに、飴玉ばかり与えていても虫歯だらけのガキが育つだけでしか無い。

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