Scribble at 2024-07-16 15:07:55 Last modified: 2024-07-16 15:16:21

海外の人が X などで「この本を買った」とか投稿してるときは、たいてい広告か、あるいは読書会で読むとかいう目的があって、本人の動機や嗜好あるいは研究とかとは関係ないんだよね。でも、日本人が「この本を買った」とか投稿してるのって、だいたいが自己承認欲求が動機になってたりするから、これも結局は海外の人と同じで、「それでどういう成果が出たの?」と他人から質問されることを最初から拒むようなスタンスで自己宣伝してるんだよね。ぼくはわたしは、こんな凄い本を読んでるんだぜとか。もちろん、洋書もその中に含まれる。

一般の人はいいんだよ。それで。別に成果や業績なんて期待しないし、期待されてるとも思ってないだろうし、実際に素人が成果なんて出せるわけがない。せいぜい、アフィリエイト目的にクズみたいな書評ブログの記事に、「書評」と言っていながら実際は目次と、生成 AI でも吐き出せるようなサマリーを書いて終わりだ。

でもね、この国が困るのは、大学院生どころかプロパーが同じことをするんだよ。嬉々として。まったく無能も極まれりという感慨があるけれど、そんなことに感心してる場合ではない。プロパーが書籍を公に紹介するというのには、やはり責任が伴うわけであって、最低でもそれを読んだうえでの成果を同じく公にするべきだと思う。もちろん、直にその本の書評を書きなさいと言ってるわけではなく、最低でも読んだ本を bibliography に含めた論文へのリンクを追加しなさいという意味だ。「読むたびにそんなことはやってられない」というなら、成果を出すに当たって貢献するかどうかもわからないような本を、他人に向かって公に紹介どころか推薦してはいけないのだ。

そういう、哲学にかかわってるくせに原理原則なんていうスタンスでものを考えられない人って、本当に自分でやってる「哲学」を自分自身に応用してみたことがあるのかって思うんだよね。どこか、他人のやってる議論を面白おかしくクリシン的に弄んでるだけじゃないのって気がするよ。ディベート番組を眺めてる視聴者のような態度で、Analysis とか Proceedings of the Aristotelian Society に掲載されているディスカッションや批評を「観覧」してるだけじゃないのって気がする。で、その観覧した感想文みたいなものを『科学哲学』や『理想』なんかに投稿してるってわけだ。

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